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‘漢四郡 韓半島説’ 根拠 木槨墓, 漢四郡以前にすでに築造

登録:2009-06-11 18:05

原文入力:2009-06-09午後08:58:58
[イ・ドギル 主流歴史学界を撃つ]⑤遺跡・遺物に見る漢四郡

←黄海道,安岳3號墳の墓壁画。燕の国から亡命した冬壽という人物の墨書銘が載っている。この墨書銘がなかったら漢四郡遺物に化けただろう。

主流史学界は北韓地域にある中国系遺跡・遺物を ‘漢四郡韓半島説’ の決定的根拠としている。そのような中国系遺跡・遺物としては土城,墳墓,石碑(秥蟬縣神祠碑),封泥など多様だ。朝鮮総督府で1915年<朝鮮古跡図譜>を刊行し、楽浪・帯方郡遺跡だと釘をさした後、現在まで定説の位置を占めている。それ以前は誰でも高句麗遺跡として認識していた。日帝ばかりでなく北韓もこの遺跡を大々的に発掘調査した。韓国主流史学界は日帝の発掘結果は無批判的に追従しながらも北韓の発掘結果は無条件否認するという矛盾した姿を見せている。

北韓リ・ジンスン ‘平壌一帯 楽浪墓研究’
“楽浪郡 設置 200年前にすでに存在”
主流史学界, 北韓研究 無条件否認
セメント使った疑惑 日帝発掘碑石は盲信

北漢学者アン・ビョンチャンは ‘平壌一帯 楽浪遺跡の発掘状況について’ (<朝鮮考古研究>・1995)で ‘平壌市,楽浪区域内だけでも2600余基に達する墓と数百平方メートルの建築地が発掘され、1万5000点余りに達する遺物を捜し出した’ として「これは日帝が ‘楽浪郡在平壌説’ を操作するために朝鮮占領期間に盗掘した墓数より何と26倍に達する」と話している。しかし北韓の研究結果に対して、韓国のある史学者が `新しく発見された楽浪木簡’ という論文で「(北韓から)最近、研究書形態のいくつかの資料が出てきたが、資料としての価値を認め難い。特に文字遺物の報告はより一層不十分で説明した内容さえ信頼しにくい側面が多い」と書いたように無条件否定している。北韓政治体制に対する好き嫌いを離れ、該当遺跡を直接発掘した歴史学者の研究に対して ‘資料としての価値を認め難い’ と決めつけるのは学問的疎通の拒否宣言に他ならない。韓国の学者たちが北韓の研究結果に対して ‘信じない’ と否定する理由は簡単だ。自分たちが定説として掲げている ‘漢四郡韓半島説’ と異なるためだ。北韓は韓国学界で漢四郡墓だと主張する木槨墓を ‘ナム槨墓’ と呼ぶが、850余基も発掘した。北韓のリ・ジンスンは ‘平壌一帯楽浪墓に関する研究’ で「これまで発掘された資料によっても紀元前3世紀以前から紀元前1世紀末まで存在したと見ることができる」と書いた。楽浪郡が設置されたという紀元前108年よりはるかに前の時期から築造され始め、漢四郡が設置されて久しくなく消えた木槨墓は漢四郡遺跡ではないという意味だ。

←中国,遼寧省錦西市で1997年に発見された臨屯太守章 封泥。中国遼西地域が漢四郡地域であることを分からせる有力な物証だが、主流史学界は無視している。

日本の植民史学者、今西龍が1913年平南,龍岡郡,海運面,ウンピョン洞(現在の平南,温泉郡,城峴里,於乙洞)で発見したという秥蟬縣神祠碑を見てみよう。<漢書> ‘地理志’ によれば秥蟬縣は楽浪郡の25ヶ属県中の一つなので主流史学界はこの神祠碑を龍岡郡が楽浪郡地域だとする決定的証拠と見ている。ところが碑が発見された地域は現在の温泉郡であることから知ることが出来るように、有名な休養地で碑が立っていた所も四方がパッと開けた平野地帯であった。こういうところに2千年間も立っていた碑を誰も見なかったが今西龍が一度で発見したということ自体が疑問だ。朝鮮総督府古墳調査委員だった藤田亮策(1892~1960)は<朝鮮考古学研究>(1948)で今西龍は龍岡郡海運面の於乙洞古墳でただ一ヶの瓦当も発見できなかったが面長から ‘碑文を読めればその下から黄金を得ることができるという古碑’ があるという話を聞き発見したと書いている。しかしそのような重要な証言をした面長は脱落させ村の子供と撮った写真を発表した。北韓の<朝鮮考古研究>(1995年第4号)は「発掘過程であらわれたように基礎にはセメントを使った」と疑問を提起し、その化学成分も近くのマヨン花崗岩・温泉オソク山花崗岩・龍岡花崗岩とは違うと分析した。銀(Ag)は周囲3ヶ地域の花崗岩より2~4倍,鉛(Pb)は3倍,亜鉛(Zn),タングステン(W),ニッケル(Ni),燐(P)は各々2倍多い反面、バリウム(Ba)は周囲花崗岩の6分の1以下だとして他の地域(遼東)から持ってきた碑石という分析だ。

三国史記 “楽浪郡など捕虜2万人”

封泥とは竹簡などの公文書を箱に入れ縛ったひもを封じ印鑑を押した泥の塊を意味する。封泥は泥という性格上、偽造説が絶えなかったが朝鮮総督府博物館は当時としては大金の100~150ウォンを与えて買いとった。日帝強制占領期間に平壌一帯だけで200余器に達する封泥が収集されたが、北韓のパク・ジンウクは<楽浪遺跡であらわれた文字のある遺物について>(朝鮮考古研究・1995年第4号)で「1969年に楽浪土城で解放前に封泥が最もたくさん出たという所を300㎡も発掘してみたがただ1ヶの封泥も発見されなかった」と伝えている。雲城里土城・所羅里土城・青海土城発掘でも同じだった。日帝が100ウォンで購入した‘楽浪大尹章’ 封泥は偽造品という決定的証拠だ。前漢を滅亡させ新国を開国した王莽は ‘楽浪郡’ を ‘樂鮮郡’ に改称し‘太守’ という官職名を ‘大尹’ に直した。王莽の時び作られた封泥ならば ‘樂鮮大尹章’ でなければならないのに、‘楽浪大尹章’であるのは偽造品であるためだ。このように日帝植民史学者らの ‘神の手’ を経たすべての遺跡・遺物は疑問だらけだ。

←秥蟬縣神祠碑。平南,龍岡郡(現在の温泉郡)で今西龍が発見したという秥蟬縣神祠碑。北韓では他地域の岩石材質だと分析した。

こういう中国系遺跡・遺物を解釈する時、中国系捕虜の存在が重要だ。<後漢書> ‘東夷列伝 高句麗’ 條は高句麗太祖大王が「遼東西安平を侵犯し帯方令を殺し楽浪太守妻子を捕虜にした」と伝える。楽浪太守妻子ばかりでなく、他の多くの捕虜と色々な文書をはじめとする捕獲物もあっただろう。楽浪郡の戸口数が記録された楽浪木簡もこういう経路で獲得した文書であろう。<三国史記>は美川王が在位3年(302)玄ド郡の人8千人余りを捕虜として平壌に移したと伝えており、在位14年(313)には楽浪郡男女2千人余りを捕虜とし、在位16年(315)にも「玄ド城を打ちのめし殺し捕虜にした人が非常に多かった」と記録している。美川王が捕らえてきた捕虜だけで最小限‘1万人+α’ だ。<三国史記>故國壤王2年(385)條は「遼東と玄ドを陥落させ男女1万人を捕虜にして帰ってきたと」と記録している。明文記録上だけで最小 ‘2万人+α’ の捕虜が捕えられてきた。こういう捕虜たちは脱出を防止するために中国から最も遠い平安南道や黄海道に集団居住させたものと推測される。高句麗には多くの亡命者もいた。<三国史記>故國川王19年(197年)條は「中国に大乱が起き漢人らが難を避け来投する者がはなはだ多かった」と伝えている。また山上王 21年(217)條には「漢の国の平州の人、夏瑶が民1千余家をつれて頼ってきたので、彼らを受け入れ柵城に住むようにした」という記録もある。黄海道,安岳郡,五局里,安岳3号墳の古墳壁画には冬寿という人物に対する墨書銘が出てくる。<資治通鑑> ‘晉記’によれば冬寿は燕国の王位継承戦争に加担し敗北するや郭充と高句麗に亡命した人物だ。この銘文記事がなかったとすれば安岳3号墳も漢四郡遺跡に化けただろう。平南,江西郡,德興里(現現在の南浦直轄市江西区域德興里)墓には遼東・玄ド太守を務めた冬利という人物の記録もある。長寿王24年(436)には北燕王馮弘などが亡命したが、その行列が前後80里にもなったと伝えられている。世界帝国の性格を持っていた高句麗には多くの中国人支配層が亡命した。高句麗疆域で中国系遺物が出てくると無条件に漢四郡遺物だと解釈することはできないという話だ。

中国系遺跡,捕虜らのものである可能性が大きい

1997年中国,遼寧省錦西市連山区の古城跡で発見された‘臨屯太守章’ 封泥は操作論争がおきない唯一の封泥だ。吉林大考古学科で博士学位を受けたポク・キデ博士は<白山学報61集>(2002)に ‘臨屯太守章封泥を通してみた漢四郡の位置’ を発表した。封泥出土地はもちろん近隣の大泥遺跡と貝墓遺跡の出土遺物を総合的に検討した論文だ。彼は戦国時代(紀元前475~221)には錦西市遺跡で古朝鮮系統の遺物が主に発掘されたが前漢中期から後漢時期になると古朝鮮の特徴は弱くなり中国特徴の遺物が主流をなすと話している。後の時期は漢四郡設置時期と一致する。しかしこの論文は主流史学界から無視された。臨屯郡は咸鏡南道側にあるべきで、遼寧省錦西市にあっては定説が脅威を受けるためだ。最近日本の旧石器時代遺跡・遺物を操作して大きい波紋を起こした考古学者,藤村新一は操作という朝鮮史編集会の伝統を引き継いだと見られる人物だ。まだ朝鮮史編集会の解釈を定説として掲げている大韓民国主流史学界は果たして朝鮮史編集会と断絶したのか尋ねざるをえない。

イ・ドギル ハンガラム歴史文化研究所長

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/215/359537.html 訳J.S