日本における国際政治学の開拓者であり“実現可能な平和主義”の定着に生涯を捧げた坂本義和(写真)東京大学名誉教授が2日に東京のある病院で心不全で亡くなった、と日本のメディアが7日いっせいに報じた。 享年87歳。
第2次世界大戦敗戦後の日本の平和主義定着に貢献した坂本氏は、1927年9月に米国ロサンゼルスで学者の父親坂本義孝氏の第三子として生まれ、幼年時代を中国、上海ですごした。1948年に東京大学法学部に入学し、政治学の巨頭である丸山真男の弟子になった。 1955年に米国シカゴ大学で現実主義国際政治学の代父であるハンス・モーゲンソーに学んだ。
彼は1959年に“日本進歩陣営の城砦”である岩波書店が発行する月刊誌『世界』に「中立日本の防衛構想」という題の論文を発表し日本学界の注目を浴び始めた。 この論文で坂本氏は日本の安保を確保するための方法として「中立国の軍隊として構成された国連警察軍が日本に駐留し、自衛隊もこの警察軍に移行させる」と唱えた。 東京大学教授だった1966年、中国との国交正常化を主張した「日本外交に対する提言」で第1回吉野作造賞を受けた。 『朝日新聞』はそれを「学問的成果を世に提言する方法で戦後日本の平和思想の定着に貢献した」と評価した。
彼の思想の原形になったのは、幼かりし時期に経験した太平洋戦争敗戦の辛い経験だった。 国家に捨てられた国民という意味の“棄民”の存在を悟ったのだ。 『朝日新聞』は「これが坂本が平和主義と民主主義を希求する原点になった」と書いた。 『東京新聞』は「(故人は)戦争末期に日本本土から捨てられ、今に至るまで米軍基地駐留の負担を背負って苦痛を受けている沖縄に対する視線を生涯忘れなかった」と報じた。
坂本は平和を追求したが“理想主義者”と呼ばれるのを歓迎しなかった。 国際政治は力の世界ということを認識し、平和研究の道を歩いてきたと自負した。 そのような意味で坂本は“理想”である日本の平和憲法と“現実”である米日安保条約の間の矛盾を埋めるために、推進できる具体的な軍縮や緊張緩和の方法を熟考した。 こうした思考の延長線で、日本の防衛費を国民総生産(GNP)の1%以内に抑制することを主張し、日本が平和憲法9条の枠組みを越えて国連の平和維持活動(PKO)に積極的に寄与しなければならないと主張することもあった。
故人は日本の戦後補償問題と北朝鮮と日本の国交正常化などの問題に対しても積極的に発言した。 特に2002年9月、金正日北朝鮮国防委員長が拉致問題を認めた後、北朝鮮に拉致された横田めぐみ氏の両親が外務省に「拉致問題が解決されるまでは北朝鮮に食糧支援をしてはならない」と建議すると、坂本氏は「自分の子供が心配ならば、食糧が足りない北朝鮮の子供たちの困難も考えて援助を送るのが当然だ。 それが人道だ」と批判した。 そのために日本の右翼から少なからぬ攻撃を受けた。 1996年、橋本龍太郎当時総理に慰安婦被害者に対する正式な謝罪と補償を要求し、2001年には日本の右翼が結集して作った「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を検定で不合格にすることを政府に要求する声明の発表を主導した。
晩年の彼を苦しめたのは再び“棄民”だった。最初の棄民が、日本は絶対に負けないという“神国不滅神話”により戦争にまきこまれ犠牲になった人々ならば、二回目の棄民は2011年3月11日に“原発安全神話”が崩壊し捨てられた福島の人々だった。 彼は2011年12月、米日開戦70周年を迎えて自宅を訪問した『東京新聞』の記者に、「戦争と原発事故の記憶を伝えるのが良い。しかし、それだけでは不充分だ。 人間が人間らしく生きることが可能な社会をあなた方はどのように構想し、それをどのように現実的なものにするのだろうか」と問うた。
坂本の最後の活動は、集団的自衛権を行使しようとする安倍政権の“解釈改憲”に反対する学者団体である「立憲デモクラシーの会」に発起人として参加したことだった。 岡本厚岩波書店社長は『毎日新聞』とのインタビューで、「(故人は)冷徹な国際政治の世界を眺めるリアリストであり、同時に人間性と市民感覚を重視する人権派だった。 冷戦時代のソ連や北朝鮮にも『西欧国家のように家族を愛する市民がいるということを忘れてはならない』と話した」と語った。
故人は2009年9月、鳩山由紀夫総理が率いる民主党政権の登場に合わせて『ハンギョレ』とのインタビューに応じた。 彼は当時、慰安婦問題に関して「おばあさんたちが亡くなる前にさらに何かを私たちがしなければならない」という見解を明らかにした。