1976年アルゼンチン軍事政権
左派運動家を拷問・殺害し
子供を拉致し軍人・警察官の家庭に強制養子縁組
孫を奪われた祖母たちがの粘り強い努力の末に
500余人の中で114人を取り戻す
「孫を抱くまでは死ねないと思ってきました。 あの子は自分のいとこと同じように芸術家、音楽家になったそうよ。 私の娘のウラも天国で笑っているでしょう。」
白い髪、しわになった顔のおばあさん闘士 エステラ カルロット(84)がアルゼンチン軍事政権に奪われた孫を36年ぶりに取り戻したと6日<AFP>通信が伝えた。 彼女は1976年クーデターで執権したホルヘ・ピデラ軍事政権に家族を奪われた被害者団体‘5月広場祖母の会’会長であり、民主化・人権運動の象徴的存在だ。
カルロトの娘ラウリは歴史を専攻する大学生で、学内左派ペロン主義政治運動団体で活動し、1977年に秘密収容所に連行され殺害された。 カルロットは後日、娘が連行された当時、妊娠3か月であり処刑の2か月前に子供を産んだ事実を知ったが、子供の行方は分からなかった。
当時、軍事政権はゲリラ団体を掃討するという名分で大学生、労働組合幹部、左派活動家など反独裁人物を大挙逮捕し拷問・殺害した。 民主化を叫んだ人々は拉致されるように連行された後、永遠に帰ってはこなかった。 消えたのは成人だけではなかった。 反政府運動をした女性たちの幼い子供たちも一緒に失踪者になった。 若い活動家が拘禁中に子供を産んだり、10才未満の幼い子供たちと共に収監される場合もあったが、彼等が殺害された後、その子供たちまで行方不明になったのだ。 当時、軍事政権は犠牲者の幼い子供を連れ出して、主に軍人・警察官の家庭に強制養子縁組させ、家族との絆を断ち切ってしまった。 次世代の反政府勢力の火種を源泉から遮断する目的の下に、国家が組織的に犯した犯罪であった。 1976年から1983年まで軍部独裁により犠牲になった失踪者は、民主化以後に政府の委員会が公式に認めた人だけで1万3000人余りに達し、3万人以上と推定する人々もいる。 その上、失踪した犠牲者の子供たちも500人余に達するものと把握された。
母であり、また祖母としてのカルロットの長い戦いは、娘の凄惨な死を確認してから始まった。 彼女は顔と腹部が銃によって傷ついた娘の遺体を1978年に引き取った直後、小学校校長職から退いた。1977年5月からブエノスアイレスの象徴である5月広場で赤ん坊の布おむつをスカーフのように頭に巻いて「私の子供を生きたまま返して下さい」と叫んだ失踪者の母親団体‘5月広場の母の会’とともにしてきた履歴のためだ。 翌年、同様な境遇の女性12人が作った‘失踪孫を探すアルゼンチン祖母の会’に加入した。 この団体は1980年に‘5月広場の祖母の会’に名前を変えた。
独裁者であったホルヘ・ピデラは2012年に執権当時カルロットの孫など反体制人物の子供たちを拉致した容疑で懲役50年の刑を追加宣告され、昨年死亡した。 カルロットの孫は家族を取り戻すことになった114人目の失踪した子供だ。 まだ見つからない400人余りは成人になって、どこかで家族も知らずに暮らしている。
クリスティーナ・キルチネル アルゼンチン大統領はおばあさん闘士に直接電話をかけてお祝いの挨拶をした後、ツィットを上げた。 「今日、アルゼンチンは昨日よりもう少し正しい国になりました。」チョン・セラ記者 seraj@hani.co.kr