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‘ヴィクトル・アン’は犠牲の羊か、冒険家か?

登録:2014-02-16 21:57 修正:2014-02-16 22:53
2014年ソチ冬季オリンピック ショートトラック男子1000m決勝戦でアン・ヒョンスが1位でゴルラインを通過した後、競技場の氷に口づけをしている。 ソチ=APニューシス

 韓国‘ショートトラックの皇帝’アン・ヒョンス(29)が、ロシアの‘英雄’ヴィクトル・アンになった現実には、韓国氷上スポーツ界の徒党文化と成績至上主義など、不条理な側面が支配的な原因だ。 薄汚れた派閥争いは2006年トリノ冬季オリンピック3冠王を安住させなかった。

 韓国体育大と非韓国体育大の派閥争いは、2006トリノ オリンピック当時に極に達していた。 コーチがどの大学の出身かによって選手たちが訓練を別に行ったほどだ。 アン・ヒョンスの父、アン・キウォン氏は<ハンギョレ>との通話で「ヒョンスは非韓国体育大選手たちに除け者にされ激しい牽制を受けてきた。 非韓国体育大出身コーチは‘外国選手たちには負けてもかまわない。アン・ヒョンスだけは食い止めろ’で指示した」と当時の無念な心境を吐露した。‘国家代表はすなわちオリンピック金メダル’という等式が生まれながら、狭い関門を通過するための選手どうしの‘八百長’が指導者を通じて露骨に伝えられた。 オリンピック前の2005年、オーストリア インスブルック冬季ユニバーシアード大会。 アン・ヒョンスは金メダルを譲歩しろとの代表チーム先輩の要求に応じなくて殴打されもした。

 指導者の一言で選手の運命が決定される現実も、アン・ヒョンスには大きな傷となった。 アン・キウォン氏は「ヒョンスが指導者出身の大韓氷上競技連盟高位関係者の反対にも関わらず、実業団チーム城南(ソンナム)市庁に行くと、その時から彼を困らせ始めた」と主張した。 2008年1月、城南市庁行き以後、代表選抜戦の日程を調整したり、方式を変更しながら負傷から回復できないアン・ヒョンスを意図的に脱落させたというのがアン氏の主張だ。

 ‘成績至上主義’もアン・ヒョンスの心を変えさせた。 アン・ヒョンスは2008年1月の世界大会を控えて、泰陵(テルン)で訓練中に滑りながらフェンスに左膝を打ち付け膝蓋骨を骨折した。 衝撃吸収をしなければならないフェンスは、水気を含んで石のように固く凍り衝撃を緩和するどころか深刻な負傷を負わせた。 1年間、三度も手術台に上がる厳しいリハビリをしたが、翌年4月の代表選抜戦では選ばれることができなかった。 アン・キウォン氏は「負傷するや連盟では‘捨てたカード’扱いをした。 代表チーム訓練中に負傷に遭ったにもかかわらず、再起して選手生活ができるよう関心を持つどころか‘アン・ヒョンスがいなくとも金メダルを取ることはできる’という態度で一貫した」として虚しさを吐露した。 選手層が厚い韓国としては、アン・ヒョンスの負傷はたいしたことではなかったのだ。 結局、アン・ヒョンスは2010年の選抜戦からも脱落するや2011年にロシア帰化の道を選んだ。

 体育界の暗い側面よりはアン・ヒョンス個人の選択に重きを置かなければならないという見解もある。 ある選手出身の氷上スポーツ関係者は「韓国体育大-非韓国体育大 派閥争いは誇張されて伝えられている。 アン・ヒョンスが負傷した後、再起のためにロシアを選択したようだ」と話した。 アン・ヒョンスの懇意な後輩であった元ショートトラック選手は「ロシアに行く過程で外圧があったかどうかは正確に知らないが、そばで見た時はオリンピックに出場したいという欲のためであるように思った」と話した。

 アン・ヒョンスは15日、ショートトラック1000mでの優勝後 「自分のための選択だった。 運動をとにかくしたかったし、負傷のために止めたくなかった。 私が最大限運動できる良い環境を探して、ロシアに来ることになった」と説明した。 アン・ヒョンスは 「負傷した後、まだ膝に痛みがあるが、ロシアでは私ができる運動の中で最も効果的な運動をした。 私に合わせて訓練できるという点が韓国とは大いに違う」と変化した環境を説明した。

 個人よりは集団の目標を重視する過去の体育界文化とは違い、個人の成就に傍点を置く新しいモデルを作るという意志が強かったものと見える。 自身が好む運動のために最善の環境を探したアン・ヒョンスは‘背信者’という非難を甘受してまでも、自身の夢のために勇敢な選択をした。 そして実力と結果で‘人間の勝利’を見せてくれた。

ソチ/ホ・スン記者 raison@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/sports/sports_general/624325.html 韓国語原文入力:2014/02/16 17:59
訳J.S(2056字)

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