原文入力:2009-04-29午前08:48:36
ロウソクのあかり 1年 私たちはどこにいるのか
昨年夏、都心の夜道を照らしたその多くのロウソクのあかりたちはみなどこへ行ったのだろうか。太平路と西面ロータリー,錦南路のアスファルトの上に巨大な点描化で描き出した ‘民主共和国’ に対する市民らの熱望は真夏の夜の夢に過ぎなかったのだろうか。1987年以後最大の ‘政治的大衆運動’ として記録される ‘2008年ろうそくデモ’ 1年を前に、ハンギョレと参与社会研究所がロウソクのあかりの現在的意味と未来を展望する共同討論会を開いた。28日ソウル,太平路プレスセンターで行われた討論会には、昨年夏のろうそくデモに熱情的に参加した3人の市民がパネラーとして参加し、ロウソクのあかりがもたらした変化と ‘ロウソクのあかり以後’ の現実に対して話した。ロウソクのあかりの成果と限界に対する専門家たちの冷静な診断と共に ‘熱狂の夏’ の主人公だったロウソクのあかり市民たちの悩みと希望を紹介する。
←チョン・テイン聖公会大教授経済危機を口実にした政府の弾圧
街頭を最後まで塞げはしない
チョン・テイン聖公会大教授は最近、批判的知識人たちの間で観察されるロウソクのあかりに対して ‘距離をおく態度’ に対して不快感を隠さなかった。2008年ロウソクのあかりが ‘中産層運動’ の限界を露呈し、非正規職など社会的弱者を排除し、精巧な理論と政治的方針ももち得ないなどの問題点があったことは事実だが、これまた「現在の歴史が克服する問題であり今の経済危機が深刻化される過程で解消されることが確実な問題」ということだ。
チョン教授は現在の経済危機とこれを口実にした政府の弾圧が、中産層市民の参加をその場は塞げるだろうが、市民のからだと意識に彫り込まれた広場と祭りの記憶はいつかまた街頭にに呼び出すと期待した。ロウソクのあかりは、その本質上1987年7・8月労働者大闘争と同じ民衆の動きと結合するほかはないが、「87年に6ヶ月間起きたことが今回は3~4年にわたって起きることになる可能性が高い」ということだ。
こういう彼の展望は韓国経済に対する彼の悲観的予測と関連している。彼は政府の浮揚政策で最近江南不動産価格が揺れ株価が上昇するのと関連して「全世界が沈滞に陥った中で、作られた ‘一人きりのバブル’ は1年も持ちこたえることができない」として「このようになれば市民、特に下位階層の生存はより大きな危険に直面することになる」と見通した。中産層がもう一度、政府の投機政策に引きずられて行った場合、900兆に達する不動資金が不動産・株式に集まり一時的上昇を主導できるものの、両極化による内需沈滞と世界経済の金融不良が解消されない状況でこういう瞬間的に好況はそのまま進むことはできないということだ。チョン教授は「バブルがはじけ人生の危機が加重される状況で街頭に飛び出さない集団はない」として「1930年代の大恐慌期に社会運動が広範囲に起きたのがその証拠」と付け加えた。
←オ・ゴンホ社会公共研究所研究室長非組織性・議題抽象化 限界
‘未完の社会運動’ として残る
オ・ゴンホ社会公共研究所研究室長は、昨年のろうそくデモを過去の民主化が放置した ‘人間らしい暮らし’ の問題を本格提起した ‘未完の社会運動’ と規定した。20余年前 ‘民主化’ をスローガンに権威主義体制を乗り越えようとした市民が、牛肉・水・医療・教育など ‘食べて生きる’ 民生イシューを ‘公共性’ という話題に集中し表出したのが2008年ロウソクのあかりだということだ。
彼は公共性をイシュー化し全国的な開かれた空間を作り出したが、ロウソクのあかりの内的限界も明確だったと診断した。エネルギーを戦略的に爆発させることができなかっただけでなく、状況が長期化し戦線が簡単に乱れたということだ。その原因をオ室長は「組織されることが出来ない運動の限界」に求めた。もちろん公共性という議題自らの限界もあった。包括性と未来指向性という長所にもかかわらず、抽象性という決定的限界を越えることができなかったという話だ。
オ室長はこういう非組織性と議題の抽象性に加え、運動の顕著な成果がなかったことに伴う失望感の拡散と、経済危機による人生の萎縮,信頼するに足る政治勢力の不在などが ‘第2のロウソクのあかり’ の登場を持続的に遮っていると診断した。ただし変数は第2のロウソクのあかりを念願する人々が相変らず多いという点だが、5月以後には非正規職法改悪と医療民営化、9月以後には2010年予算案処理などが新しいロウソクのあかりの火種になりうるというのがオ室長の判断だ。
彼は「重要なことは色々な議題を未来的ビジョンを持つ幅広い価値に凝集させること」としながら「それでこそ情勢変化にもロウソクのあかりの動力を維持でき、他の個別的議題とも統合が可能だ」と説明した。続けて「言論公共性,医療公共性,年金公共性,食べ物公共性など社会公共性概念を大衆的に解きほぐす方案を講じなければならない」として「これを通じてイ・ミョンバク政府に対する批判を越え、代案と実践方案を持った運動に転換させていかなければならない」と付け加えた。
←パク・ヨンソン参与連帯企画委員長改革の主体として立ち上がった大衆
‘市民’ のいない市民運動に警鐘
「市民運動をする立場で2008年向き合ったロウソクのあかり市民は困難そのものだった。」
パク・ヨンソン参与連帯運営委員長は ‘進化する市民’ に注目した。2000年総選挙における市民連帯の推薦反対落選運動で頂点に到達した韓国市民運動が、自ら革新し進化する市民の水準に追いつけないまま明確な限界を表わしているということだ。
パク委員長が見るには、2008年ロウソクのあかりは成長した市民の運動力量が遅滞した市民運動と制度政治を跳び越え、独自の主体として自分たちの存在を本格的に表出した事件だ。市民運動の包括的支持者として運動団体に参加を委任したり(1段階)、具体的支持者として運動組織に参加し活動する水準(2段階)を越えて、生活世界で作られた多様な結社体を舞台に自ら運動を組織し展開する新しい段階に進入したということだ。パク委員長は「市民の変化は昨年ロウソクのあかり当時、彼らが誰とともに広場に集まったかを確かめてみれば明らかになる」として「彼らが一緒にしたのは市民団体や政党ではなく家族,学校,職場,同好会の旗だった」と回顧した。
このような点から昨年ロウソクのあかりが市民運動に投げかけたメッセージは ‘改革の対象’ ではなく ‘改革の主体’ に関心を向けろということだったとパク委員長は話す。具体的で個別的な市民を想定しない市民運動はこれ以上可能でないということを昨年ロウソクのあかりは示したということだ。
彼は現在のように市民運動が自らのエネルギーを確保できない状況では「ロウソクのあかり市民のように自発的主導者が市民社会に活力を吹き込む充填剤の役割を自認するのも悪くない」とした。市民運動に向かっては「当分自発性と自決権を持った市民らの水平的パートナーであり協力者の役割をしなければならない」として「市民教育を支援し実質的参加を拡大するための多様な制度を用意することに力を傾ける必要がある」と注文した。
←チョ・デヨプ高麗大教授葛藤が日常化された社会を迎えて
ネチズンたちの活動に視線集中
「韓国の社会運動は ‘ロウソクのあかり’ と共に ‘組織運動の周期’ から ‘脱組織運動の周期’ に入った。」
‘社会変動としてのロウソクのあかりと市民運動の新しい周期’ を発表したチョ・デヨプ高麗大教授(社会学科)は、韓国の社会運動が「1960~70年代在野運動(1周期)と80年代民衆運動(2周期),90年代市民運動(3周期)に続く ‘第4の周期’ を迎えている」と診断した。こういう観点から市民運動は制度的水準の ‘マクロ民主主義’ の確保に忠実だったこれまでの運動方式を抜け出し、日常の生活と密着した ‘微視民主主義’ の課題に視線を転じなければならないというのがチョ教授の注文だ。
チョ教授が見るには、ろうそく集会は階級と理念を越えた新しい葛藤戦線の拡散を見せたという点で ‘新葛藤社会’ の到来を表わす兆候だ。新葛藤社会は国家の社会統合能力が弱まる中で、市民社会の不満と欲求は増大し、これを表出する疎通経路が拡大することによって社会全般にわたり葛藤が日常化された社会だ。ここでは階級・民族など産業社会的イシューだけでなく、環境・教育・住宅など日常的懸案や性・文化・余暇などアイデンティティと関連したイシューが政治化されるが、こういう社会で最も注目しなければならない存在としてチョ教授はネット空間で活動する ‘電子的大衆’ を挙げる。
チョ教授が見る時、彼らは産業社会の原子化された大衆とは異なり、通信技術とニューメディアでネットワーク化されている。重要な点は彼らの活動がイシュー・規模の無制約性,オン・オフラインを行き来する活動空間の無制約性により既存市民団体の行動方式を越えるということだ。チョ教授は「韓国の市民運動は相変らず1~3周期社会運動で見せてくれた組織化された運動の限界を抜け出せずにいる」として「組織の合理化と開放化・柔軟化に力を注ぎロウソクのあかりに現れた理念的・文化的柔軟性を受け入れる前向きな姿勢が必要だ」と助言した。
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/352301.html 訳J.S