イスラム文化が花開いたアッバース朝時代、アラブ商人はインド洋に吹くモンスーン(季節風)に乗ってアジアを歩き回った。ムスリム地理学者であるイブン・フルダーズベが、「諸道と諸国の書」という本に統一新羅を金が多い国と描写した9世紀、すでに多くのムスリム商人がミャンマー西部海岸に到達して村を作っていた。
ペルシャ系ムスリムは、中国の雲南に近いミャンマー北東部地域に腰を据えた。インドにイスラム国家であるムガール帝国が成立してからは、インド系ムスリムもミャンマーにやって来た。彼らは医師、王の顧問、行政専門家など高位専門職として名をはせることもあった。
しかし、現在ミャンマーで暮らしているムスリムは、「華麗な過去」からは距離を隔てている。最近、仏教徒を中心に広まっている「反イスラム主義」のために生存を脅かされている。
AP通信などは28日、ミャンマー北東部シャン州の州都ラーショーで、仏教徒がモスク(イスラム寺院)とムスリム孤児院に火を付けて、街の各所の建物を攻撃したと報道した。あるムスリム男性が、ガソリンスタンドで仕事をする仏教徒女性と争い、この女性に油を浴びせ、火をつける事件が起こると、激怒した仏教徒が立ち上がったのだ。一部の仏教徒は、29日にも鉄棒と竹槍を持ち、バイクに跨ってラーショー市内をかき回した。ムスリムは家に閉じこもり、息をひそめた。正確な人命被害は集計されていないが、ミャンマー政府は、直ちにこの地域に大衆集会・演説を禁止する非常戒厳を宣布した。
中国国境から190km離れたラーショーは中国人の影響力が強い地域で、過去にはムスリムと仏教徒間の衝突は殆どなかった。この日に広がった「ラーショー事態」は、イスラム系少数民族であるロヒンギャ族への弾圧が深刻な西部ラカイン州だけでなく、ミャンマー全域に反イスラム感情が広がったことを示す傍証であると言える。昨年6月、ラカイン州でロヒンギャ族200人余りが殺害されたのに続き、3月には中部マンダレー州メイッティーラで、ムスリム40人ほどが命を失った。
生命尊重と他宗教に対する寛容を強調してきた「慈悲深い」仏教徒が、このようにムスリムを嫌悪する理由は何か? 専門家たちは数百年間積み重なったムスリムに対する反感と「ビルマ民族主義」を挙げる。イスラム専門家であるイ・ヒス漢陽(ハニャン)大教授は、19世紀にミャンマーを植民地統治したイギリスが、仏教徒が大部分であるミャンマー人を治めようとインド系ムスリムを連れてきて、軍・官・経済分野に「準支配階層」として登用したのが対立の根元になったと指摘する。
インド系ムスリムはこの時期にミャンマーへ大挙移住し、これは1941年にインド-ビルマ移民禁止条約が締結されるまで続いた。仏教徒がムスリムを「インドの奴」とまとめて非難するのも、このような歴史的背景から始まっている。
1962年クーデターで政権を取ったミャンマー軍事勢力は、国民の反感を鎮めようと、強制移住政策などでムスリムをスケープゴートとして弾圧した。民主政権成立以後は、主流ビルマ族を中心にした「ビルマ民族主義」がムスリム弾圧の覆い隠しに歪曲されている。
イ・ヒス教授は「トレランス(寛容)を重視したフランス社会が移民者に敵対的に変わったように、ミャンマーもまたイスラムを主流に対する脅威と見なすため、ムスリム人口が増加するのを負担に感じている」として「最近、ラカイン州でロヒンギャ族に対する産児制限を実施すると明らかにしたのも、これに通じている」と説明した。
イユ・チュヒョン記者 edigna@hani.co.kr