原文入力:2009-04-15午後06:41:08
[マガジンesc] escワーキングマップ4.木浦 旧都心 近代文化遺産 探訪
1930年代映画セットのような木浦 旧都心
近代文化遺産 楽しんで 木浦駅まで 6km
イ・ビョンハク記者
←木浦鎮(万戸鎮)に上がる道端の石垣。一部は旧木浦鎮城壁の石を使ったものと推測される。
木浦は新義州~釜山をつなぐ1・2号国道の基点だ。栄山江を通じて内陸に深く出入りした航路の町角でもある。木浦という名前は重要な町角,要衝地の入り江を意味する。早くから倭寇がしばしば横行しまくったところだ。木浦の元都心は近代文化遺産の宝庫と呼ばれる。湖南線鉄道終着地であり出発点の木浦駅から歩き始めた。
木浦駅①(1914年完工)向い側路地は若者の町だ。週末の夜になれば路地ごとに色とりどりの照明がつきカップルたちが集まる。五叉路側に歩く。日帝時代ここは日本人居住地(儒達洞)と韓国人居住地(北橋洞・竹橋洞)の境界地域だった。商圏が発達し鋭くなった対立と共存とが交差した場所だ。木浦ヤクザらが勢力化した始点として知られる。
80才になった帽子店,70才越えた庭園
←escワーキングマップ4.木浦 旧都心 近代文化遺産探訪.(※クリックすればさらに大きく見ることができます。)五叉路を渡り、旧日本人街に入り込む。左側に古い劇場建物がある。日帝時代から木浦劇場(1926年設立)と共に公演・映画普及に寄与した平和劇場②(当時平和館・1927年設立)跡だ。チェ・スンヒの舞踊,ホン・ナンパの公演も平和館で開かれた。草原シルバータウン(草原ホテル)は日帝時代の消防署跡。消防署のそばには警察署が、そのそばには木浦郵便局③(現、儒達山郵便局)があった。国道1・2号線の基点記念碑と道路原標標石の後に見える赤レンガの建物が旧日本領事館④だ。日帝領事館の前に先に出会うのは素朴な顔立ちの朝鮮時代善政碑2つ(各々1714年,1763年建立)だ。本来、万戸鎮の場所に建てられていたが日帝が領事館裏庭に埋めたものを光復後に発見し現位置に建てた。
旧日本領事館(史跡289号)は日帝が1900年に建てた2階建て赤レンガの建物だ。木浦の近代建築物中、最も古く大きい建物だ。光復後、木浦市庁・市立図書館・木浦文化院などとして使われる。現在は展示館用途に使うために内部工事中だ。日本領事館の建物の後の山の下には日帝が40年代初めに米軍空襲に備えて掘った82mの長さの防空壕⑤がある。
下ってきて200m程歩けば右側路地内に湖南地域で最も規模が大きいという日本式庭園⑥(1930年造成)が残っている。光復後、ある国会議員の手を経て今は郷土企業人イ・フンドン(93)氏が買い入れ所有している。庭園を見るには、そばの聲玉記念館⑦で許可を得なければならない。道の向かい側、右側の儒達小学校内には日帝の教育機関だった尋常学校の講堂⑧(1929)が残っている。現儒達小学校には1908年靈光,仏甲山で捕えられた韓国虎の剥製が保存されている。
木浦近代歴史館四つ角の曲がり角にあるカフェ⑨(幸福いっぱいの店)は日本人が住んでいた家と庭園の姿がそのまま残る、いわゆる敵産家屋だ。古典音楽とマキアート一杯で6000ウォン。前方の木浦近代歴史館⑩は必ず立ち寄るべき所。日帝収奪機関の代名詞だった旧東洋拓殖株式会社(以下、東拓)建物だ。木浦近代史と日帝が犯した蛮行が写された写真資料らを展示している。
←80余年間、代を継いで帽子だけを売ってきたカプ・ジャオク帽子店中央聖潔教会を挟んで坂道(万戸路)を上がれば、郷土史学者たちが‘木浦踏査1番地’と呼ぶ木浦鎮⑪(万戸鎮)跡がある。500年余りの歴史を持つ西南海岸防御基地だ。世宗の時、木浦鎮を設置し燕山君の時に石城を積み倭寇侵入に備えた。周りに400mほどの城壁があったという。今、城壁の痕跡は消え、木浦鎮跡であることを知らせる碑石と案内板が立っているだけだ。日帝時代、ホンマチ(本町)と呼ばれた旧繁華街に降り立つ。カプ・ジャオク帽子店⑫は何と85年間一ヶ所で帽子類だけを売っている帽子専門店だ。1930年代の映画セットのような通りの中間には定食屋が続いている。アサリ澄まし汁に10種類余りのおかずが付いてくる6000ウォンの食卓が美味だ。木浦文化院⑬として化粧直しされた旧湖南銀行木浦支店(1929年建設)は日帝時代、湖南人が力を集めて設立した純粋民族資本銀行だった。正門頭上石に彫られた‘…木浦支店’という漢字の中で ‘浦’ 字の一番上の1画が抜けている。これは設立者のヒョン・ジュンホが ‘木浦支店が繁盛すればその時に付ける’(または日帝から独立を成し遂げれば付ける)としてわざわざ除いたという話が伝わっている。
五叉路側には古びた ‘ムク茶房’ がある。54年間に6度主人が変わり、一ヶ所を守った ‘古式茶房’ だ。木浦文化芸術家と有志が集まって展示会を開いたり物事を論じた広間だ。昨年一時、廃業の危機に見舞われたが茶房文化を生き返らせようという運動が起こり命脈をつないでいる。コーヒー2000ウォン(年配者は1500ウォン)。五叉路から10時方向の道に入れば香ばしい焼き魚の臭いが漂ってくる。旬の刺身・焼き物と黒山洪魚(エイ)で名が知られた食堂,トギンチブがある。コブ鯛焼き・舌平目煮付・鮫刺身・黄石魚煮物などを味わうことができる。
←陽洞教会は木浦最初の教会だ。日本式寺院,東本願寺⑭を経て、旧木浦劇場⑮横を入ればファッション・ショッピングの中心街である若者の町だ。水門通側に行く。かなり以前、海水がここまで入ってきて水門を設置した所を示す。木浦青年運動の産室だった新安郡庁そばの木浦青年会館(16)(1929年建設)と郡庁内の旧務安監理署建物(17)を見て、北橋小学校(18)に向かう。1897年に開校した由緒深い教育機関で金大中前大統領と歌手イ・ナンヨンがこの学校を出た。陽洞教会(19)は1897年に創立された木浦最初の教会だ。建物の窓のアーチ型石に‘大韓隆煕四年’という文字が刻んでいる。1910年に建てられた建物だ。
儒達パークマンション後にイ・ナンヨン生家跡(20)を見ながら降りてくると、質屋横に ‘食あたり なおします’という看板を掲げた家が見える。10余年前まで陽洞テソンサンセム路一帯には民間療法で食滞・食中毒を治療する家が多かったという。幼いころ、母親に連れられてここにきたことがあるというクァク・スンイム(52)木浦歴史道案内代表が話した。「木浦は果てだからねー開発と発展が遅れてきたからそのおかげとですよ。他所から来た方々が見て古いものが古いまま残っていて驚かれるんですよ”
“開発が遅れてきたおかげとです”
100年余りの歴史を持った貞明学校(21)にも昔の建築物が残っている。中学校図書館として使われている建物の天井からは1990年に ‘木浦4・8万歳運動’参加者と投獄者・死亡者名簿が発見されもした。学校を出て左に10分余り歩けば昌平洞中央公設市場に達する。35年間、糸とボタン,ジッパーだけを売っているという第一糸店主人ソン・スジン(59)氏に会った。彼が手垢のついたソロバンをなでながら話した。「商売良くないねー。それでも糸・ボタンの店は木浦でたった2軒だけだからね。30年前にも2軒で今でも2軒だけなんだよ。」
足取りも重くなりお腹の空く時間、中央食料市場(22)(食べ物通り)に入った。スンデ屋・餅屋・エイ屋などが続く。肝臓をたっぷり切ってくれるスンデ(豚腸詰)一皿が5000ウォン。ここから木浦駅まで10分の距離だ。いつのまにか6kmを歩いた。
ウォーキング メッセージ
◎ソウル,龍山駅から木浦駅までKTXが明け方5時20分から夜9時30分まで一日九回運行する。月~木曜日4万500ウォン,週末4万3300ウォン。3時間10分かかる。セマウル号は一日2回(午前8時55分,午後5時5分)運行。月~水3万6600ウォン,週末3万8300ウォン。4時間50分かかる。ムグンファ号一日6回(午前7時5分から夜10時5分まで),月~水2万4600ウォン,週末2万5700ウォン. 5時間10分。
◎木浦文化院で毎月第3土曜日、木浦元都心を歩き近代文化遺産を見て回る ‘木浦路地踏査’を行っている。1時間30分~2時間かかる。(061)244-0044.市民団体‘文化歴史道案内’でも木浦近代文化遺産探訪行事を準備中だ。 016-871-8885.
木浦=文・写真イ・ビョンハク記者leebh99@hani.co.kr