アルジェリア人質事件 55人 死亡
1990年代内戦が土壌となり
リビア内戦が雷管の役割
フランス植民主義も背景
"ビンラディンの友人が地上と海上で身代金を徴収するだろう。 私たちは15世紀に地中海で身代金を徴収した海賊出身のオスマントルコの提督‘レッドベアード’(赤ひげ)時代に戻るだろう。"
‘アラブの春’がリビアで独裁政権の打倒を目指す内戦に発展した2011年、ムアマル・カダフィ前リビア国家指導者は自身が崩れれば混乱とイスラム聖戦が北アフリカを覆うだろうと警告した。 19日、事件発生後4日ぶりに幕を下ろしたアルジェリア人質事件はその警告を思い出させる。
アルジェリア特殊部隊は東南部のイナメナス天然ガス工場で外国人労働者を人質に捕らえていたイスラム主義武装勢力人質犯11人を射殺し、この人質事件を終了させたとアルジェリア国営ニュース通信(SPA)が19日報道した。 アルジェリア当局の集計によれば、4日間続いた今回の事態で人質23人と人質犯32人が死亡した。 最後の作戦過程で人質犯が7人の人質を追加殺害したと伝えられている。 外信は犠牲になった人質の大部分が外国人だと報道している。
今回の事件はベンガジの米国領事館攻撃事件、フランスの軍事介入まで招いたマリ内戦と互いに関連性を見せ、北アフリカ地域でのイスラム主義武装勢力拡散を劇的に見せるものだと専門家たちは指摘する。 特に直接的には1990年代アルジェリア内戦がその土壌となり、リビア内戦が雷管の役割をしたと見ることができる。 1992年イスラム救国戦線(IFS)が圧勝した総選挙をアルジェリア軍事政府が取り消して勃発したアルジェリア内戦で、武装イスラムグループ(GIA)等イスラム主義武装勢力は軍部の武力に敗退しながら砂漠地域だったアルジェリア南部地域に追い出された。 2000年に入りアルジェリア軍部は投降しなかったイスラム武装勢力を境界を隣接したマリ北部地域へ追放してしまった。 アルジェリア情報当局がイスラム武装勢力のマリ再定着を積極的に助けたという報告もある。
マリに入ったアルジェリア イスラム主義勢力は1960年代から分離独立闘争を行ったトゥアレグ族と結合して、新しい機会をつかんだ。 彼らはマリ-アルジェリア国境などこの地域のずさんな国境を縦横無尽に行き来しながら密輸など各種犯罪と利権事業を展開し、勢力をより一層拡張した。 2007年アルカイダの北アフリカ支部である‘イスラム マグリブ アルカイダ’の結成はこの地域のイスラム主義勢力をアルカイダ化すると同時に国際的連係を作る契機となった。
トゥアレグ族らはカダフィの傭兵勢力としても活躍した。 カダフィの没落はこれらトゥアレグ傭兵勢力をマリ本国に帰還させることになり、これはパンドラの箱が開かれたことと専門家たちは指摘する。 アルジェリア政府はその間マリに対する軍事介入は結局イスラム武装勢力の波高を自国とその周辺地域に拡張させると見て、積極的な仲裁を繰り広げてきた。
パリ政治研究所の中東分析家であるジャンピエール ピリウは 「サハラ地域の聖戦の背後にある主動力はアブ ザイドとペルモクタル間の競争だ」と指摘する。 今回のアルジェリア人質惨事を主導したモクタル ペルモクタルとアルカイダ指導者アブ ザイドは権力闘争を行い、昨年ペルモクタルがアルカイダから追放され当局に足首を掴まれたと推定された。 ペルモクタルは今回の惨事を主導することによって自身の健在と共に復讐を誇示したものとピリウは分析した。
フランスの時代錯誤的な植民主義残滓も背景の一つとして指摘されている。 1960年代フランスはベトナム戦で敗北してもアルジェリアの独立を阻み戦争まで行ったあげく結局は退いた。 現在の軍事政府とイスラム勢力は100万人余りが亡くなる20世紀の最も残忍な内戦の中で鍛練され形成された勢力だ。 フランスは米国が反対したリビア軍事介入も主導したし、今回のアルジェリア人質惨事の名分になったマリ内戦にも単独介入した。 過去に植民地であった北アフリカ地域に対するフランスのこのような軍事介入はフランス ショービニスムの表現という批判も強い。
チョン・ウイギル先任記者 Egil@hani.co.kr