朴槿恵セヌリ党大統領候補にとって最も恐ろしい人を挙げるなら? 抜き難い人物の一人は政界ではなく学界にいる。 ハン・ホング聖公会(ソンゴンフェ)大教授だ。 2005年‘国家情報院過去事件真実糾明を通じた発展委員会’で正修奨学会問題を調査したハン教授は、今‘独裁の遺産 正修奨学会の解体と独立正論 釜山日報争取のための共同対策委員会’執行委員長として活躍している。
山積みの資料と証言で武装した彼が<贓物バスケット>という本で朴候補とその父親の責任を問うて乗り出した。 それも10月26日という意味深長な日にあわせて出版した。
この本は‘正修奨学会通史’と呼んでも良い。 正修奨学会のルーツである釜日奨学会の設立者キム・ジテの出生(1908年)から今日の正修奨学会社会還元運動まで100年を越える歳月を扱う。
核心はやはり1961年5・16クーデター直後、釜日奨学会の強奪過程だ。 裁判所は最近キム・ジテ遺族の訴訟で「国家の強圧」があったと明らかにしたが、キム・ジテと周辺の人々が被った内容を見れば、強圧という話はむしろ高尚に過ぎる。 「連行・留置された初日、中央情報部釜山支部長パク・ヨンギが軍の野戦服を着て拳銃を身に着け入ってきて‘わが軍が命をかけて革命をしたからには大韓民国のすべての国民の財産は我々のものだ’と脅かした」という証言は西部劇のような当時の雰囲気を生き生き伝えている。 著者は「人質強盗事件」と規定する他はないという。
次に「漢江(ハンガン)以南の最高富者」と言われたキム・ジテからどうして、わざわざ土地10万坪と共に彼が作った<韓国文化放送>・<釜山文化放送>・<釜山日報>を奪ったのかだ。 この3つの報道機関は李承晩政権末期の1960年3・15不正選挙抗議デモを生中継し、催涙弾を顔に受けたキム・ジュヨル君の遺体写真を大きく載せるなど、当時としては考え難いほどに勇敢な報道活動で「世界的特ダネ」となった。 4・19革命後、張勉(チャン・ミョン)総理は釜山文化放送が「革命の先鋒」だったとし表彰した。 言論の威力と利用価値に注目した朴正熙はこの3ヶの報道機関を奪い、正修奨学会の前身である5・16奨学会に投げ入れたわけだ。 本の題名<贓物バスケット>はそこから出てきた表現だ。
この本は‘朴候補はなぜ無関心を装うのか’という現在的質問にも糸口を提供する。 父親の時のことだとか、2005年理事長退任後は関係がないという釈明は‘実所有主’論難をかき乱すことができると指摘する。 1995年正修奨学会の文化放送持分(30%)処理問題が公論化された時、オ・インファン当時広報処長官は「正修奨学会を代表する人がいない」として難色を示した。 当時キム・クィゴン ソウル大教授が理事長であったのに代表する人物がいないと見たわけだ。 それから1ヶ月半後、朴候補は正修奨学会理事長になった。
結論的に著者は朴候補が遺産を放棄したくないということではないかと問う。 彼は、朴正熙が個人的蓄財はしなかったという称賛も聞くが文化放送株式の上場まで仮定すれば正修奨学会と育英財団、嶺南(ヨンナム)学院などの総資産が10兆ウォン相当になると見る。 1971年大統領選挙で文化放送地方局売却代金の大統領競選資金使用説が提起され、今年の大統領選挙を控えても文化放送持分売却問題に火が付いたのは‘正修奨学会私有財産説’の傍証だという見解だ。
イ・ポニョン記者 ebon@hani.co.kr