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6回の刑務所ぐらし、異端論争…文鮮明総裁とは一体誰なのか?

登録:2012-09-04 14:55
https://www.hani.co.kr/arti/society/religious/549882.html
原文登録 : 2012.09.03 13:19 修正 : 2012.09.03 13:20

3日早朝、肺炎合併症で他界、享年92歳
統一教創設…メディア、教育事業等国際的影響力

3日他界した文鮮明統一教教祖は韓国現代史で最も論争の的になった人物の一人だった。彼は稀代の異端教祖という非難と共に世界的に最も広く知られた韓国人という有名税を同時に払わされた。2009年に出版して100万部が売れたという自叙伝「平和を愛する世界人として」で自らを「名を名乗るだけで世の中がザワザワとする問題人物」と紹介したとおりの人物だった。
1951年に統一教(世界基督教統一神霊協会)を創設して世界194カ国に宣教師を派遣して1976年にワシントンで参加者30万人の集会を開いて「ニューズウィーク」に「パーソン・オブ・ザ・イヤー」として選ばれた一方で、アメリカのUPI通信とワシントン・タイムズの所有者として国際的な影響力を行使した。
特に90歳を超えても10時間以上立ったままで説教をしたりほとんど休まずに活動するほどの旺盛な気力とカリスマで教徒たちを魅了して、アメリカの右翼政治家たちや退任した海外の国家元首級人物を呼んで「実力」を見せつけたりした。

彼は1920年1月6日平安北道定州(チョンジュ)で8兄妹の次男として生まれた。彼は自叙伝で「目が小さくて『チョグムヌニ』(小さい目の子)と呼ばれたり、一度泣き出すと一日中泣いていたので『ハルウリ』(一日泣く子)と呼ばれたりした頑固な子供だった」と告白した。

そんな彼がクリスチャンになったのは15歳の時だったという。家庭の大きな災いがきっかけとなって家族全員がクリスチャンになった。統一教では、彼が16歳の時に4月17日の復活節の朝のお祈りの途中でイエスが現れて人類の救済をしてほしいと重々に頼まれて、天の摂理のための文教祖の道のりが始まったと主張している。
彼は18歳で定州公立普通学校を卒業して、その後ソウルの京城商工実務学校電気科に入学してイエス教会名水台礼拝堂の日曜学校の教師として信仰生活を送った。1941年には日本の早稲田大学付属高等工業学校電気科に入学したという。

彼が宗教者として活動を始めたのは1946年に開拓教会を建てた平壌だった。1948年に「社会秩序紊乱罪」で共産党に逮捕されて5年の刑を言い渡されて興南(フンナム)監獄で2年8ヶ月の刑に服していた頃に朝鮮戦争が勃発して南に避難してきた。

彼は1951年5月釜山の凡6洞(ポムユクトン)にあった2坪の土壁の家で再スタートを切って1954年に世界基督教統一神霊協会(統一教)を設立した。1年後の1955年、キリスト教財団が運営する梨花女子大学と延世大学の学生と教授たちが統一教に入信したことが明らかになり、プロテスタントは入信者を退学、退職させて統一教に対する非常警戒態勢に入った。

それに伴って韓国国内での宣教ができなくなった文教祖は海外に突破口を求めた。1958年に日本、59年にはアメリカにそれぞれ宣教師を派遣して本格的な海外宣教に乗り出した。1961年には長年統一教のナンバー2として君臨していたパク・ポヒ氏が駐米韓国大使館の武官補佐官となったことをきっかけに統一教はアメリカにおける宣教の翼を広げた。1966年には統一教の経典「原理講論」を出版した。

1970年代は文教祖のアメリカ時代だった。彼は反共を標榜して大都市において大規模な集会を開いて注目を集めるようになった。それに伴って1978年、彼の特別補佐官パク・ポヒ氏がアメリカ下院の国際関係小委員会(フレーザー委員長)に召喚されて調査を受けるなど彼の米国内のおける活動が制約を受けるようになった。脱税容疑でダンバリー刑務所に収監されて13ヶ月間服役して85年に出所した。統一教では生涯に6回に渡って刑に服する試練に遭ったとしている。

1968年国際勝共連合を創設して勝共、滅共運動を展開した彼は1982年に「ワシントン・タイムズ」を創刊してアメリカの政界で極右保守を代弁するようになった。そんな彼は1990年にモスクワでソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領と単独会談を行った。1年後の1991年11月30日には平壌を訪問して金日成主席と会った。南北関係の行き詰まりが長期化していた当時、金主席との会談は相当な関心を集めた。これについて統一教では「当時、金日成主席は会おうとしなかったが、ホテルで夜も寝ずに神様のお話をして『共産主義ではダメだ』と語る文教祖の度胸に惚れて義兄弟の契を交わした、金正日総書記にも格別に配慮するように遺言を残した」としている。90歳になった時、金正日総書記が天然の朝鮮人参を贈るなど常に格別な扱いをしていたのもこの遺言のためだということだ。

文教祖夫婦は自らを「真の両親」として1960年から数千、数万組の合同結婚式を挙げて祝福するなどドンキホーテ的なイベントを多数開いた。統一教では今まで非信者を含めて5億組が絶対純血と絶対の愛の誓いをして祝福結婚に参加したと主張している。去る2001年にはアフリカ、ザンビアのカトリックのミリンゴ大主教が文教祖が間に立って結ばれた韓国人女性と結婚してローマ教皇庁の反発に直面したこともある。2005には大国の角逐の場となった国連に代わる場所が必要として天主平和連合(UPF)の創設も行った。

文教祖は宗教とメディア分野以外にも仙和芸術学校、高校、景福小学校、善正中学校、高校、鮮文大学、清心中学校、高校など教育界や一和、一成総合建設、一信石材など様々なビジネスも展開した。

キリスト教からの絶えず異端、エセ宗教論争に苦しめられた文教祖は90歳を迎えて統一教はキリスト教ではないとして教団本部であるソウル龍山(ヨンサン)の天正宮に四大宗教の教祖とシンボルを設置するなどキリスト教色からの脱皮を図った。統一教ではこれとともに文教祖がメシアだとPRするようになった。

統一教では彼が90歳を迎えた2009年に、京畿道(キョンギド)加平(カピョン)郡雪岳(ソラク)面に500万坪規模の「統一教王国センター」格の「天正宮」を外部に公開した。この日のイベントで文教祖は「再臨主」、「救世主」、「平和の王」と呼ばれたのに次いで彼は夫人と共に「万王の王神様解放圏戴冠式」を開いた。このように「神様として就任」する行事で自らの神格化とメシア化に最後の情熱を燃やした。 

チョ・ヒョン宗教専門記者cho@hani.co.kr

原文:  翻訳:Y.U