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維新に対抗した‘在野大統領’の死…37年ぶりに真実が明かされるか

登録:2012-08-15 10:06

原文入力:2012/08/15 08:32(3066字)

←白凡と共に  1946年冬ソウル、牛耳洞(ウイドン)の華渓寺(ファゲサ)を訪ねた白凡 金九先生(前列の中折帽をかぶった人)とチャン・チュンハ先生(白凡先生の右後方2列目のメガネかけた人)が記念写真を撮っている。

張俊河(チャン・チュンハ)‘転落死’尽きない疑惑
傾斜75度、高さ14mの岩盤から転落したというのに外傷なし
最期を見た唯一の目撃者 キム・ヨンファン 事故後 突然 教師就職
疑問死委では "糾明不能" 発表

  1975年8月チャン・チュンハ先生の死後37年間、他殺の疑いが絶えなかったのはチャン先生が60・70年代に37度の逮捕と9度の投獄にもめげず朴正熙前大統領に対抗した宿命の政治的ライバルだったためだ。

  チャン先生は言論人として、野党政治家として朴前大統領とはきっ抗した対称点に立った。 日帝強制占領期間である20代半ばの若い時期、チャン先生は大韓民国臨時政府光復軍大尉として、朴前大統領は日帝満州軍中尉として克明に対照される道を歩いた。 チャン先生は朴前大統領に会った席で 「日帝がそのまま続いたとすればお前は満州軍将校として独立闘士に対する殺戮を継続したのではないか」と対面反駁したこともあるという。 朴前大統領は自身の満州軍服務と光復(解放)後の南朝鮮労働党加入のような過去を全て熟知しているチャン先生が自身に対抗して反独裁民主化運動の先頭に立っていることが非常に負担になったという。 そのためにチャン先生が亡くなった直後から転落死として処理された死因を巡り疑問が提起された。

←法廷に立った良心‘維新憲法を改憲しなければならない’という100万人署名運動を繰り広げて緊急措置1号に違反したという罪目で拘束され法廷に立ったチャン・チュンハ先生。

■ 37年間続いたチャン・チュンハ他殺疑惑

  チャン先生の死亡当時、警察はチャン先生が1975年8月17日山岳会員40人余りと共にソウルからバスで2時間の距離である京畿道(キョンギド)抱川(ポチョン)市(当時、抱川郡(ポチョングン))二東面(イドンミョン)の薬師峰(489m)に登り、高さ14mの断崖から‘滑落して’死亡したと発表した。 地方から上京して登山に合流した‘キム・ヨンファン’という人物が唯一の目撃者であった。 キム・ヨンファンはチャン先生が出馬した総選挙の際にボランティアメンバーとして活動したが、登山以前の数年間は会ったことがなかった。 その日一行が薬師峰のわき水で食事の準備をする間にチャン先生とキム・ヨンファンが別々に山道を登り、再び一行側に降りてくる時に斜面から滑落したとのことが当時警察の発表内容だった。

  だが、傾斜75度の岩盤から転落したのに体重73㎏だったチャン先生の身体に大きな外傷はなく、死因とされた‘右耳後ろの頭蓋骨破裂’が単純墜落のためにできた傷と見るのは難しいという点のために当時から疑問死論難がおきた。 ‘墜落事故地点は山がとても険しく若い登山家でも思いのままに上がって下りることができない傾斜75度、高さ14mの急な絶壁なのに、チャン先生一人で何の装備もなしで降りてこようとした’(<東亜日報> 75年8月19日付)という記事が、チャン先生の死亡二日後に紙面に掲載されもした。 この事件に対する疑惑を投じた記事を書いた内外信の記者たちは緊急措置違反で逮捕されひどい目にあったり韓国から追放されたりした。

←(※クリックすればさらに大きく見ることができます)

  チャン先生他殺疑惑は1970~80年代の軍事政府時期にはうわさとして出回り、1993年の文民政府スタート後に民主党が‘チャン・チュンハ先生死因究明真相調査委員会’を設けて再び公論化した。 しかし決定的な証拠がなく疑惑に留まった。 盧武鉉政府の時である2004年には大統領所属疑問死真相究明委員会はこの事件を再び調査した後‘真相究明不能’という判定を下したが、目撃者キム・ヨンファンがチャン先生の死亡後に突然高等学校教師として就職していた事実、彼の一貫性のない陳述、チャン先生の遺体に墜落の痕跡が殆どない点を挙げて「過去の捜査結果は非常に信頼し難い」と発表した。

■独立闘士・反独裁闘士チャン・チュンハ

  チャン先生は1918年平安北道(ピョンアンブクド)、義州郡(ウイジュグン)古城面(コソンミョン)、煙霞洞(ヨンハドン)で生まれた。 1944年日本軍の学徒兵として中国に派兵されたが日本軍から脱出した。 彼の著書<トルペゲ>を見れば、故郷を離れ妻キム・ヒスク氏に‘私は兄弟と骨肉のためならばたとえ呪いを受けてキリストから見捨てられるとしても望むところだ’という聖書の一節を残した。 手紙にこの一節が記されていれば日本軍から脱出したという意味だとほのめかした。 彼は44年7月、日本軍兵営から脱出した後中国軍を経て同年11月に53人の同志たちと共に大韓民国臨時政府があった重慶まで2400kmの道を歩いて白凡 金九傘下の光復軍に合流した。

永遠の光復軍

←光復軍将校として1945年国内進攻作戦のために中国西安で米国情報機関(OSS)特殊訓練を受けた当時のチャン・チュンハ先生(右側)とキム・ジュンニョプ前高麗(コリョ)大総長(中)、ノ・ヌンソ先生。

  光復軍将校として国内進攻作戦のために米国情報機関(OSS)隊員に志願して特殊ゲリラ訓練を受けた。 日本の降伏後である1945年11月23日臨時政府要人らと共に米軍輸送機で帰国し金九主席の随行秘書として働いた。

  韓国戦争時の1953年、避難地である釜山で月刊<思想界>を創刊し、50年代李承晩の独裁政治を批判の先頭に立って当時知識人が最も注目する雑誌に育てた。 <思想界>は5・16クーデターを主導した朴正熙陸軍少将が大統領になった後に推進した韓-日修交交渉やベトナム国軍派兵などを強く批判した。 チャン先生は特に対日屈辱外交反対闘争委員会の演説者として全国巡回講演をしながら70回余りの演説を通じて朴正熙、キム・ジョンピルなど韓-日交渉主導勢力を批判した。 ベトナム国軍派兵と関連しては1966年に訪韓したリンドン・ジョンソン米国大統領について「韓国青年の血がさらに必要で来た人間」とし辛らつに攻撃することもした。 朴正熙政権は売り切れた<思想界>を返品したり一年に二度も税務調査を行う方式で<思想界>を圧迫した。

  チャン先生は1962年韓国人として初めてマグサイサイ賞を受賞し、国外でも業績を認められた。 67年第7代国会議員選挙の時は収監された状態で国会議員として獄中当選した。 72年10月の維新以後には74年緊急措置1号違反で15年刑を宣告され、刑執行停止で仮釈放されるなど反維新民主化闘争の先頭に立った。

  チャン先生が亡くなった後、明洞聖堂で行われた永訣ミサでキム・スファン枢機卿は「チャン・チュンハの死は星が落ちたのではなく、さらに新しい光となって前途を照らすためにしばらく隠れただけ」と語った。 パク・キヨン、クォン・ヒョクチョル記者 xeno@hani.co.kr 写真チャン・チュンハ記念事業会提供

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/547160.html 訳J.S