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[2012大統領候補探求] 朴槿恵①独裁者の娘

登録:2012-07-17 06:38

原文入力:2012/07/15 19:42(4350字)

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残酷な背信のトラウマ…娘は父親の復権にしがみついた

"うちの父親は独裁者であり、娘として沈黙した私も共犯者だ。既に父はいないので私がその過ちを抱いて行く。"

 2004年8月イ・ジェオ議員が朴槿恵当時党代表(以下、呼称省略)を批判して引用した、'スターリンの娘の言葉’だ。 スターリンの一人娘スベトラーナは1967年‘敵国’だった米国に亡命し、ソ連とスターリン、共産主義体制に対する批判を吐き出した。 イ・ジェオ議員はスベトラーナに例えて朴槿恵に‘もう父親の朴正熙を捨てて心から謝りなさい’と要求したわけだ。 朴槿恵は応じなかった。 朴槿恵の社会生活と政治活動が一貫して父親である朴正熙の名誉回復に焦点を合わせられてきたことを見れば、当然の反応だ。

朴正熙の死後に急変した全斗煥と第三共和国の人々
追悼式さえ許さず "お前の父親は政治を誤り、手の振り方もやぼったい"

■ 第三共和国勢力の背信

 全斗煥政権は朴正熙の痕跡を消そうと努めた。 朴正熙との差別性を浮き掘りにするため、憲法から‘5・16革命精神’を消し、ハナ会に否定的だった共和党実力者は権力型不正疑惑を着せて除去した。 朴正熙時代は不正、腐敗、非理の時代として規定された。 維新末期にすでに朴正熙と政治的に争う地位にまで上がった金鍾泌(キム・ジョンピル)はもちろん、政治生命を保とうとする旧共和党の人々も朴正熙批判に乗り出した。

 朴槿恵の兄弟姉妹から見れば唖然とすることだった。 パク・ジマンは<女性東亜>(1989年4月号)インタビューで当時のみじめな状況をこのように描写した。  「(陸軍士官学校時期)生徒隊長は父が亡くなるやいなや態度が急変した。 生徒隊長は‘パク大統領は手の振り方からしてどれほどやぼったかったか。それに対して全斗煥大統領はどれほどフォームが素晴らしいか’等々の話で亡くなった父親を引きずり降ろした。 私は怒りが込み上げて顔が赤くなった。 父の周囲で忠誠を捧げた人々と政治家の中で一部は七面鳥のように変わってしまった。 うれしい気持ちで挨拶しても、‘現大統領(全斗煥)は立派だが、君の父は政治を完全に間違った’と私の前で非難を日常的に行った。"

 朴槿恵もそのような背信を日記帳に吐露した。 「今までやさしくて親切だった人が後には利に浅ましく、世知辛い人ではないと誰が断言できるだろうか。 はかない人間の歴史だ。」(1981年2月)  「自分を世話してくれた人がどうして急変して銃を向けるのか、悪口を言うかも知れない人々だらけの都市、また、そういう人々が英雄視される社会では道徳が正しく成り立つことはできない。 」(1981年3月)

 全斗煥政権は朴正熙に対する追悼式を許容しなかった。 朴槿恵兄弟姉妹が知人らと共に家族祭祀で行った。 国立墓地で追悼式が開かれたのは1987年が初めてだった。 朴槿恵が感じた背信の傷は彼女の骨と肉を貫きDNAとして刻まれたようだ。 朴槿恵が政治に入門して15年が過ぎたが、変わらず脇を守るNO.2がいない。 側近がいたとしても‘自分の政治’に乗り出すような姿を見せた瞬間、朴槿恵との関係は致命的損傷を受ける。

←ファーストレディ時期、朴槿恵議員が父親の朴正熙前大統領と共に大統領府の芝生に立っている。 <ハンギョレ>資料写真

盧泰愚政権になって以後
名誉回復 外部活動を開始
記念会を作り…追悼式を開き…
映画を作り…奉仕団を組織して…
女性誌にも常連として登場

■‘父親’の名誉回復

 12才の時から‘大きな令嬢’として10年、22才からファーストレディとして5年を過した朴槿恵は、27才から10年ほどは公開的な対外活動をしなかった。 ‘隠遁’、‘ちっ居’等の表現を使うけれども、育英財団と嶺南(ヨンナム)大などには関与していた。 1988年盧泰愚政権になってからは、朴正熙を復権させるための公開的外部活動を始めた。

 まず朴正熙・陸英修記念事業会を発足させ(1988年)、朴正熙死亡10周忌追悼行事を15万人が参拝する大々的な規模で行った(1989年)。 朴正熙を美化する映画<祖国の灯>を製作し、朴正熙の業績を描いた<民族の指導者>という520ページの本を出しもした(1990年)。 その頃に固まった‘独裁者 朴正熙’という世間の評価を変えるために‘朴正熙 再評価’作業を進めたわけだ。 着実に彼女の脇を守ったチェ・テミンと一緒に陸英修を追慕する団体‘槿花奉仕団’を組織(1989年)したのもこの頃だ。 朴槿恵とチェ・テミンが1976年に作って対外活動の基盤とした‘セマウム(新しい心)奉仕団’の後身だ。 槿花奉仕団は一時、全国で会員が70万人に達し、地域組織も備えた。

 槿花奉仕団の情報誌である<槿花報>は朴正熙政権の正当性を説明する理論の基盤になった。 朴槿恵は槿花報社説を通じて父親を消そうとしていた全斗煥政権を正面から批判することもした。 「1979年11月3日、故朴正煕大統領の国葬の日には多くの国民が哀悼し号泣して朴大統領と永訣した。 それから10年の歳月が流れ、東方礼儀之国と言われる国で国葬を行った方に対する追悼行事は一度もなかったし、罵倒一色の歳月を送ってきた。 果たしてその罵倒は誰のためのものであったのか? …それでは国葬は何のために行ったのか。」

 同じ時期、マスコミを通じた世論戦も活発に行った。 権力の頂点で‘王女’として生きて‘少女家長’に急転直下した朴槿恵の話は世論の関心を集め、特に各種女性誌は朴槿恵の便りを頻繁に扱った。 朴槿恵は非情な現実に対する所感をろ過することなしに表わした。 「維新時期に責任が重い席に座った政治家たちの中には維新を罪悪視するこの頃の風潮のためかは分からないが‘私はその時に反対した。 私がその時にどんな力があって反対できたか’と弁解をするケースがしばしば目撃されている。 そうした方々に対して私は、自身が本当に悪い体制だと考えたとすればなぜその時その場を退かなかったかと訊ねたい。」(<女性東亜> 1989年1月号)

 父である朴正熙の名誉回復のための活動により朴槿恵は何を得たのだろうか? 1989年末、彼女の日記からは‘怨念解消’の虚脱感がにじみ出る。 「1989年は… 数年間にこり固まった恨みをはらしたと表現しても良い一年だ。 父に対する、その時期の歴史に対する歪曲が85%程度むけたという。 …ひたすら感謝して喜ばなければならない私の心は、本当はとても憂鬱だ。 なぜ生まれてきたのだろうか、生まれてこなかったら、このような心の苦痛もなかったのではないか等々相次ぐ沈鬱な思いばかりだ。 … 80年代は再び振り返ることもおぞましい鳥肌が立つ年代だと感じられる。」(1989年12月30日)

90年代、再び隠遁の人生を生きて
97年イ・フェチャン選対委を契機に政治家として新しい人生を開始
‘父の人々’と対蹠点として
自民連の代わりに新韓国党を選ぶ

←1998年4月、大邱(テグ)達城(タルソン)国会議員補欠選挙で当選した朴槿恵当時ハンナラ党候補が地区党事務室で党員たちの祝福を受けている。 達成/カン・チャングァン記者 chang@hani.co.kr

■ 再び潜伏…そして政治家として

 1990年チェ・テミンの専横論難で触発された育英財団の混乱の末に理事長職を投げ出した朴槿恵は、再び公開の席から消える。「1990年11月、その時まですべての心と誠意を傾けて推進してきた両親記念事業活動を中断し、したがって特別な外部活動なしですごした期間、私は読書と思索そして運動などに比較的多くの時間を費やしてきたと振り返ります。」(1993年に出した<平凡な家庭に生まれたならば>序文

 弟との交流も絶ったようだ。 1991~1997年の期間には両親の追悼式にも姿を見せなかった。 パク・ジマンの麻薬服用事件で騒々しい時もパク・クンリョンだけが姿を見せた。 弟との見苦しい争いで口端に上がった育英財団事件が、朴槿恵には非常に大きな衝撃だったという。 「もう一度、生きろと言われたら、いっそ死を選ぶかも知れない。 過ぎた歳月は生まれてきた以上、使命と義務があるために生きてきたので。 生まれてこの方、人生を享受するということにこのような楽しみもあるんだねと感じた記憶はあまりない。」(1992年5月21日日記)

 金泳三政府の末期に発生した外国為替危機は朴正熙時期の高度成長に対する社会的郷愁を呼び起こした。 1997年大統領選挙候補であったイ・インジェが朴正熙式ヘアースタイルをて出てきて、朴正熙 イメージを公然と打ち出すほどであった。 朴槿恵が政治家として新たに乗り出したのはこの時期だ。 彼女は大統領選挙を一週間後に控えて、イ・フェチャン新韓国党候補の選挙対策委員会顧問を委嘱され、隠遁の歳月18年に終止符を打った。

 当時、朴槿恵はいとこの義兄であり朴正熙の‘同志’であったキム・ジョンピルの代わりに新韓国党を選んだ。 3共和国の人々が多かったキム・ジョンピルの自民連には母方のおじ(ユク・インス)もいたし、朴正熙秘書室長出身のパク・テジュンもいた。 実際、これらの人々から‘ラブコール’もあったと伝えられている。 それでも朴槿恵はその対蹠点に立った。 数多くの‘父の人々’が裏切り新軍部に向かった時代に対する朴槿恵なりの返答えだった。 当時キム・ジョンピルとパク・テジュンの「朴正熙の業績を継承する」という話に、朴槿恵はこのように応酬した。 「父と国民が国を磐石の上にのせようと努める姿をそばで見守った。 しかし1980年代に入って父の業績が歪曲された時、その当時沈黙して時代に便乗し罵倒した人々の話は自分たちの利益を得ようとしているだけで信じることはできない言葉だ。」

 朴槿恵は翌日から応援遊説に立ち、「1960~70年代、国民が血と汗を流して起こした国が今日のような難局に処したのを見れば、亡くなった父が思い出されて喉がつまる時が1,2度ではなかった。 このような時、政治に参加して国家のために寄与することが両親に対する道理と考える」と声を高めた。 キム・ウェヒョン記者 oscar@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/542589.html 訳J.S