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[おい!韓国社会] ‘龍山’は尋ねる-なぜ?

登録:2009-03-24 17:28

原文入力:2009-03-23午後08:32:25
パク・スジョン ルポ作家

去る土曜日夜、ソウルに雨が降った。雨より先に‘龍山’は涙にぬれた。火に焼けて死んだ六つの怨霊をなだめる祭祀(黄海道祭祀保存会‘ハンツッケ’の公演)が開かれた席。巫女と遺族,その場を共にした市民たちが泣いた。昼12時に始まったクッ(祭祀)は中間に追慕文化祭をした後にまた続いた。殺さなずに生かそうとしたら、投げ出さずに救おうとしたら…、生きた命を失った魂がどうにもくやしくて怒っているのではないか。

クッ(祭祀)をする間、巫女らが倒れ家族らは発作を起こしたりもした。いくら慟哭しても寃痛が解けるか、追慕しようと集まっても不法だとして広場を塞ぎ逮捕する政府に謝罪どころか真相究明を要求する遺族までも暴行し遺影をぶち壊して貧しい国民などはなきものにするこの政府に、ずっと傷ついた心が巫女に慰められることを私は望んだ。撤去を前にして空っぽの家で一人で学校に通う高校生の息子をくれという巫女たちが有難かった。死んだ夫たちが「名誉回復になる時まで絶対に時間と歳月に屈しない」という妻たちをしっかり抱いて共に泣く巫女たちが生きているバリテギ(捨てられ姫)のように見えた。雨はますます強くなりクッ(祭祀)は予定した時間を越え夜9時頃に終わった。
殺人鎮圧であったものが、すべての罪は撤去民にかぶせられたまま時間は止まったのか。いや、その日を忘れない限り真実は埋められないだろう。クッ(祭祀)が死亡者と残された者を抱いたように、画家は絵で、歌手は歌で、詩人は詩で、俳優は演劇で、作家はまもなく出てくる撤去民の人生を記録した<ここに人がいる>という本で、そのように‘龍山’で今動いている。真相が明らかになり、責任者が処罰される時まで遺族・市民らと共にしようと。

遺族と市民が真相究明を要求する理由は明らかだ。遺族が語る言葉を聞いてみれば‘なぜ’が唯一多い。「望楼から降りてケガした人を起こして助けた人々がなぜ燃え上がる望楼に行ったというのか。火がごうごうと燃える望楼で死んだと警察が発表したが、遺品中になぜライター二つはなかったのか。なぜ手袋はなかったのか。自動車の鍵の取っ手プラスチック部分はなぜなかったのか。なぜ龍山警察署と区庁から来た公文書は全くなかったのか。なぜあれほどすばやく解剖検査をしたのか。ひとりを解剖検査すれば二時間でも足りないのにどのようにしたら5人を二時間でできたのか。なぜすべての死体を完全にメッタ切りにしておいたのか。警察はなぜ追慕祭に行った遺族をそのように殴るのか。それはなぜ報道されないのか。なぜ警察は病院を行き来する遺族を遮断するのか。なぜ警察も政府も真相糾明しようとする遺族の心を推し量れないのか。私たちがなぜ不法なのか。」

その‘なぜ?’に答えずに、政府は無力な者に向かって不法・暴力という話を度々する。追慕祭も不法、参加する人間も不法、旗を結ぶ旗竿も不法武器だと私服警察が道を遮って脅迫する。‘不法’という断定の下に不法でないものがない世の中だ。屁をした奴が他人に癇癪を起こすように、不法・暴力を繰り返して口にする政府が疑わしい。惨事建物3階壁看板には‘世の中は生きるということでなく住む所’と記されている。世の中を‘住む所ではなく生きるということ’にしようとする者たちが実際、不法と暴力それ自体ではないだろうか。龍山4区域撤去民のある女性が話したとおり「戦警らがなぜここで24時間守っているのか。恐ろしくてそうすることと違いますか?恐ろしくて怖くて仕方ないから。自分たちが犯した罪があるから。」そうではないだろうか。この前、南部の六十を越した女性農民から聞いてきた話だが、イ政府にわかるだろうか。「他人を殺して自分が生きる方法はない。他人を生かせば自分も生きる。他人を殺そうとすれば自分が死ぬ。」

パク・スジョン ルポ作家

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/345715.html 訳J.S