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カミングアウトできなかった友人の死

登録:2012-05-27 11:57

[マガジン esc] キムジョ・グァンスの「マイ ゲイ ライフ」
原文入力:2010/11/18 11:04 修正:2010/11/25 15:13(1395字)

「ティナ」という異般(同性愛者たちが自らを呼ぶ言葉)名を持つ後輩がいた。ティナは料理が上手な友人だった。ソウル忠正路近くで小さなスパゲッティー店を営んでいた奴を、ゲイ友達は「スパゲッティ屋」と名付け、それを縮めてティナと呼んだ。奴はティナという名前は野暮ったいとぼやいていたが、いつの間にかに慣れて、後には親しみやすいと好んだ。

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ティナは慶北栄州が故郷だったが、栄州でも市内ではなく田舍の方なので、私たちは彼を田舍ゲイだと呼んだりした。察するに、彼は故郷でゲイだという事実を明らかにすることができなかった。田舍の老人たちはゲイという単語も知らなかったはずで、どの家にスプーンが何本あるかも知られているそんな村で、同性愛者という事実を示したら、その共同体を去らねばならなかっただろうから。そんな田舍ゲイのティナが、同性愛者ということを告げて暮すまで、30年以上かかった。二十代始めにソウルに上京してきたティナは、噂だけを聞いて梨泰院と鐘路の路地を探して、ゲイバーを知るようになったが、そこで出会ったゲイたちは、ひと晩の相手にはなることができても、友達になってくれることは無理だった。ゲイバーを出入りしてから10年が過ぎたある日、鐘路の屋台でゲイ人権運動をする友人に会い、ティナの運命は変わった。

カラオケに行けばマイクを置かないほど歌うのが好きだった奴は、ゲイだけで構成された合唱団「G-ボイス」に加入するようになり、その合唱団公演を共にしながら、自分がゲイだということを人々に告げるようになった。クィア・パレードが開かれるソウルのど真ん中の大舞台に立ったりしたし、大邱公演では、幼い時に片思いをしていた友達夫婦を招待したりした。これ以上、小部屋にこもって涙で夜を明かさなくてもよかったし、同性愛者として生きることに対する自責も消えて行った。友人も増え、笑いも多くなった。そのようにG-ボーイス団員として活動した期間を奴は、「私の人生の黄金期」と呼んだ。そのように黄金期を謳歌したティナは、病に勝つことができず、去年の今頃、世を去った。彼の黄金期はわずか2年だった。死ぬ数日前、彼は家族にカミングアウトした。ようやく家族は、ティナとの間に横たわっていた厚い壁が何だったのか知るようになり、がらりとある時から変わった理由も分かるようになった。

数日前、ティナの一周忌追悼式があり、彼が眠っている納骨堂へ行った。家族とゲイ友達の多くの人々が集まり、遺影の中の彼は明るく笑っていた。家族は、もっと早くカミングアウトができずに去ったことを惜しがった。短く生きていった人生、一度だけの人生、家族たちともっと仲良く過ごしていけたらとの思い、ティナの公演に拍手を送ってあげることができなかったことに対する心残りだった。あと何年か生きていたら、公演に家族も招待したと思っていた。もしかしたら、自分が楽になるために家族を傷つけるのではないかと思い、カミングアウトすることができず、ためらっていた奴だったが、家族の心はそうだった。あの世で彼がそれを知ったら、いいだろう。

キムジョ・グァンス 映画監督
原文:https://www.hani.co.kr/arti/specialsection/esc_section/449385.html 訳 M.S