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双龍(サンヨン)22番目の死 「アカと言われて・・・就職本当に難しい」

登録:2012-04-09 06:14

原文入力:2012/04/06 15:24(4554字)

←金属労組双龍自動車支部の壁に若干ぼやけたプリントのイ・ユンヒョン氏の写真が貼られている。 映像カルムリ/チョ・ソヨン ディレクター



白黒プリントの遺影に祀られた36才 イ・ユンヒョン氏
闘争意志が強かった整理解雇者としては初めての死
「23番目、24番目、、、生きている人間も死んで行きそうで苦痛です」

「助けて下さい。 もうこれ以上は生きられません。」

 すでに22番目の死だ。 マイクを握った手が小刻みに震えた。 一瞬、悲しみが喉元まで押し寄せた。 キム・ジョンウ金属労組双龍自動車支部長は結局大粒の涙をこぼしてしまった。 去る4日午前、京畿道(キョンギド)平沢市(ピョンテクシ)七槐洞(チルゲドン)の双龍自動車工場前は深い悲しみに沈んでいた。 双龍自動車整理解雇者で36歳という花のように美しい歳で世を去ったイ・ユンヒョン氏の路祭は、彼の死と同じく寂しい限りだった。

 工場を背にして設けられた緑色テントの簡易焼香所にはロウソク二本と、米、線香が全部だった。顔のない黒い影絵が故人の遺影の代わりに置かれていた。 何一つ持たずにこの世を去った者の寂しさがその中にちらついた。 作業服を着た4,5人の労働者と組合幹部が黒い遺影を抱きしめて焼香所を守っているだけだった。 ダンプトラックばかりが出入りする工場正門前の三叉路には、野辺送りの歌がスピーカーから流れていた。

 # 顔のない遺影、彼がこの世に残したものは潰れた体が全部

 イ・ユンヒョン(36)氏は去る3月30日、一人で暮らしていた金浦(キンポ)のある賃貸アパートの3階にある住居から23階の屋上に上がった。 そして冷たい地面に身を投げた。 金浦高麗病院に運ばれた時は救急室ではなく遺体安置室だった。 彼の遺体は葬儀も行なえず2日に火葬場に移された。 遺書は別になかった。 彼がこの世に遺した痕跡はつぶれた体がその全部であった。

  1995年に入社したイ氏は双龍自動車部品品質管理チームで勤務した。 平凡に職場生活を送っていた彼だったが、2009年夏の双龍自動車事態を避けることはできなかった。 2646人という大規模整理解雇者名簿に彼の名前も入っていた。 悪夢のような77日間の玉砕ストライキ闘争に彼も最後まで参加した。 希望退職を拒否して結局解雇者の身になった。 当時イ氏の年齢は三十三才。 ストライキが終わって彼は「平沢はもういやだ。 離れたい」と何度も同僚に話していた。 イ氏は仁川や金浦などで仕事を探して転々としたが、この3月初めまでろくな職場は得られなかった。 唐津(タンジン)に就職の面接に行くという言葉が、同僚が聞いた最後の消息だった。

 # 「平沢はいやだ」去っていく労働者たち

 「体格もよく性格も明るい人だったのに、死んだという知らせを聞いても初めは信じられませんでした。 どうか人違いであるようにと願ったりもしたが… 」
 路祭の真っ最中に、キム・某氏が上気した顔で焼香所に向かって歩いてきた。 彼の目からは涙があふれそうだった。 キム氏はイ氏と工場で一緒に仕事をしていた友人だった。 イ氏について尋ねると、言葉を継ぐことができず、あふれそうだった涙が先にポロッとこぼれた。「彼自身も解雇対象者だったけれども、他の同僚たちが工場から追い出されるのでそれを何とかしようと最後まで戦った人でした。 平沢を去らずに一緒にいたら、同僚らと顔も合わせ生きていく方法を一緒に探すこともできたはずなのに…」

 キム氏は言葉を続けることができなかった。そして「解雇されたあと平沢がいやで去っていった同僚が多い」として「次々と死んでいくのがとても辛い」と涙をこらえながら言った。あとは、顔のない遺影を穴のあくほど見つめるばかりだった。


←顔のない黒い影絵の故イ・ユンヒョン氏の遺影をキリュン電子の労組員が抱えている(上)。 「これ以上生きられません」と言ってキム・ジョンウ 双龍自動車支部長が涙を流した(中)。「はじめの頃はユンヒョンの方がむしろ私を慰めてもくれたのに・・・」 もっと気を遣ってやることができなかったことについてキム・ドゥクチュン副支部長は残念がった(下)。 映像カルムリ/ チョ・ソヨン ディレクター

 #「幸せに暮らすようにという一言も言ってやれず、一緒に酒を飲むこともできなかった」

 路祭を執り行なった4日午前には日が差していた。 風が吹けば工場前の焼香所のテントは揺れた。 その前で言葉もなく遺影を抱いて頭を垂れていた同僚の中から、ソ・ソンムン氏(整理解雇者)がイ氏について口を開いた。 「笑っている顔ばかり思い出します。 ストライキの時、77日間一緒にいた時も、私に『先輩が生き残った人(整理解雇から除外された人)として一緒にスト籠城に入ってくれてありがとう』と言っていた後輩です。 3月に支部に訪ねてきたが、その時は皆がソウル市庁広場での希望のテントのイベントを控えていてめちゃくちゃ忙しかったんです。 幸せに暮らせという一言も言ってやれなかったし、一緒に酒を飲むこともできなかった・・・」

 ソ氏もまた話を続けることができなかった。 労組が焼香所を守っている人々に焼酎とラーメンを用意した。 しかしソ氏は食べられなかった。 「こうしてもう3年になろうというのに、未だに理解できません。 この破綻を作り出した経営陣は両足を伸ばして大きな顔して生きているのに、私たちは本当に何も悪いことをしていないのに、いくら考えても何もしてないのに、、、。 人々は私たちの苦痛については知らないまま、ただ死のことだけを記憶します。 私も自分がどんな精神で持ちこたえているのか分かりません。」

 労働組合のキム・ジョンウ支部長は、イ氏が整理解雇者の身分で死亡した最初の事例であることに注目していた。「解雇者からは死亡者は今まで1人も出ていません。希望退職を拒否して自ら解雇者となった人々はそれだけ闘争意志が強い人々です。 より明確な目標をもつ整理解雇者が命の綱を手放すということは、先に亡くなった人々とは意味が完全に違うのです。 23番目、24番目と続いて出てくれば、生きている人間も死んでいきそうで、あまりにも辛いです。」

←2009年京畿(キョンギ)道庁前に向かう市街行進の隊列の中にイ・ユンヒョン氏の姿を見つけた。 映像カルムリ/チョ・ソヨン ディレクター

 # イ氏「以前のことが思い出されてたまらない。 心が痛む」

 36歳の寂しい死。 イ氏の最期の痕跡を辿ってみることにした。 キム・ドゥクチュン 双龍自動車労組首席副支部長は、イ氏が最後に知らせてきた家の住所を仁川、西区(ソグ)麻田洞(マジョンドン)のある連立住宅と記憶していた。「私たちの77日間のストを記録したドキュメンタリー映画があります。 <あなたと私の戦争>というその映画が見たいと、昨年10月にユンヒョンからケータイメールが来ました。 私がその仁川の住所に宅急便で送ったんです。」 そのときイ氏は「以前のことが思い出されてたまらない。心が痛む」とキム副支部長に話したという。

 労組事務室で会ったキム副支部長は、イ氏についての記憶をもう少し辿っていった。「昨年末、夜遅く、夜中にも、度々酒に酔ったユンヒョンから電話が来ました。『兄貴、周りで私をアカと言うんだが、どうしたらいいか。就職するのが本当に難しい。他所に行きたい。この環境から抜け出したい。』その時初めて知りました。ユンヒョンが両親は亡くなって、腹違いの兄がいるが相当期間往来がなく、正月も酒を飲んで一人で過ごすというんです。」

 労組事務室の壁には路祭では見られなかったイ氏の写真が懸けられていた。 A4用紙にコピーした白黒写真の中で、イ氏は明るく笑っていた。 家族のいない寂しさも解雇者の苦痛も、職場を探して歩き回る求職者の佗びしさも、笑っているその写真の中にはなかった。

←工場正門を背にして簡易焼香所を設けた。 労組は遅くなってもイ・ユンヒョン氏の49日を執り行なうと言ったが、工場前の希望のテントを撤去したように、恐らくこの焼香所もまもなく撤去されるだろうと予想した。 映像カルムリ/チョ・ソヨンディレクター


 # 酒に酔ってワラクセンターに電話し「申し訳ない、かけまちがえた」と
 (訳注:ワラクセンターではサンヨン自動車事態の被害者である労働者とその家族の心理治療プログラムを行なっている)


 「私が平沢に来いと言いました。 全く知らない所で一人でいるよりは、まだしもここで一ヶ月に一度でも一緒に話せば気が晴れるじゃないですか。 ワラクセンターで相談治癒のプログラムもやっているから平沢に来いと…. そのたびに彼は笑いながら『兄貴、私は何の問題もないから、 私の心配なんかしないで他の人たちのこと、もっと考えて・・・』と言って電話を切るんです。」 キム副支部長の回想には、イ氏のこと、もっと気を遣ってやれなかったことに対する自責の念がにじんでいた。

 双龍自動車の平沢工場から遠くないところに双龍自動車ストライキ事態被害者の心理治療を助けるワラクセンターがある。 そこにもイ氏は2回ほど電話をした。 初めはプログラムについて問い合わせをし、何も言わずに切った。2度目は酒に酔って「すみません。 掛け間違えました」と言ったという。 イ氏の電話を受けたワラクセンターの相談教師は、通話をした時に受話器の向こう側で泣く声だけが聞こえたという。「すみません。今話せる状態じゃないんです。 申し訳ありません。」センターで仕事をする相談教師たちもやはり解雇者の家族だ。 家族を助けてやれなかったという自責の思いはワラクセンターにも広がっていた。

←金属労組双龍自動車支部は4日午前11時、京畿道平沢市七槐洞の双龍自動車工場正門で、22番目の死亡者イ・ユンヒョン氏の記者会見を行なった。 集まった人は三十人余りだ。 映像カルムリ/チョ・ソヨンディレクター



 # 不十分ながらも労組と連絡がついていなかったとすれば知られずにいたであろう死

「同じ苦痛の中でこんなに多くの人が死んでいく。私たちもそうなっていくことに対する恐怖が一番強いです。」

 路祭が終ろうとする頃、誰かの口から苦痛に満ちた独白がもれた。 労組で把握した人だけで22人だ。 労組と連絡がつかないさらに多くの人がイ氏のような道を辿ったかもしれない。 イ氏も同僚らと間遠くであれ連絡がついていなかったとすれば知られずにいたであろう死だった。

文・映像 チョ・ソヨン ディレクター azuri@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/527092.html 訳A.K