原文入力:2012/03/06 23:30(1960字)
←日本、福島第1原発から西に60kmほど離れた福島県、郡山市の福島朝鮮小中級学校で去る1日午後、1年生の全員である二人の生徒が教室で先生の説明を聞いている。 彼らの首には放射能被爆量を測定するための携帯用測定器がネックレスのようにかけられている。 外気と遮断するために窓は一年中閉めておかなければならない。 郡山/キム・ミョンジン記者 littleprince@hani.co.kr
日本、福島第1原子力発電所から西に60kmほど離れた郡山市田村町の福島朝鮮小中級学校運動場の一画には小さな山が一つ作られていた。 学校の運動場の表面土をかき出して積んだところだ。 放射能測定機を当てるとすぐに時間当り0.5マイクロシーベルトと表示される。 運動場(0.14マイクロシーベルト)の3倍だ。 昨年3・11大地震直後この学校では一家族の生徒5人が両親と共に九州に発った。 残った生徒16人と教師8人全員は昨年5月15日、新潟県の朝鮮学校へ集団避難した。
"昨年は運動場での放射線量が時間当り1マイクロシーベルトを超えていました。 ここで子供たちを教えることはできませんでした。 窓さえ開けられませんでしたから。"
ク・ヨンテ校長は「周辺の学校に申し訳なくて、話もできずに静かに土地を離れたが、後になって‘良かったね、うらやましい’と言われました」 と語った。生徒たちが新潟へ行っている間に卒業生と在日同胞が運動場の汚染土をかき出して高圧散水機で建物を洗浄し除塩した。 幼い小学生がホームシックに苦しんで、学校は昨年12月に再び戻ってきた。しかし4月の新学期は再び新潟県で始まる。 周辺地域の放射線量が子供たちが過ごすには依然として非常に高いためだ。
朝鮮学校の生徒たち 被爆憂慮 来月から再び新潟県へ
"日本政府 放射線管理区域 出入り禁止法 投げ捨てる"
原発事故1年が過ぎながら放射線量は大幅に低くなったが、福島県内各地ではまだ人が暮らすには負担の大きいところが多い。 原子力発電所から半径20km以内の避難区域との境界にある田村市、都路町には住民3000人の内、老人たちを中心に500人ほどが家に戻った。原子力発電所の西側に位置し放射線量が時間当り1マイクロシーベルトを下回ったためだ。しかし、帰ったものの仕事はない。 今年も稲作は禁止されたし、牛は育てても売ることはできない。
放射線量が相対的に高い福島市と郡山市の両親たちは心配が山積だ。 文部科学省の測定結果を見れば、去る1日の両都市の放射線量はそれぞれ時間当り0.62, 0.65マイクロシーベルトだった。
"昨年6月には私も娘も鼻血が出ました。 娘が通う学校の同じクラスの子供たちも5~6人が鼻血を出したそうです。"
原子力発電所事故の後一ヶ月ほど長野県の実家に子供たちを連れて避難して帰ってきた福島市のナカノ ミズエ氏(主婦)は小学校5年生の娘を6月に長野県の妹の家へ再び避難させた。 娘と同じクラスの生徒5~6人も現在他の県で避難生活をしている。 自主的避難だとして政府支援はない。 ナカノは「時間当り0.6マイクロシーボルトを超える所は放射線管理区域と定め、一般人は入れないよう法で決めている。 日本政府がその法を投げ捨てている」として憤慨した。福島市の人口は30万人ほどだ。
内部被爆を減らすために西側地方から食材料を配達し食べる人もいるが、福島の人々は相当数が福島産食材料をそのまま使っている。 自分たちまでが食べなければ誰も食べないだろうという思いからだ。 日本政府が定めた基準値を下回るから流通しているのに、放射能がどのくらいついているかは分からない。 高等学校2学年の息子を持ったタカハシ セイコは自営業を営む夫の反対で避難できずにいる。タカハシは 「私たちの息子がかわいそうだ。 応援するからと福島産食材料を食べることは止めてほしい。それを食べさせようとするのは犯罪だ」として顔を赤めた。
昨年3月の原発事故以後11月まで福島県では5万3122人が住民登録を他県に移し引越した。転入者とあわせれば市の人口は3%ほどに当たる3万1381人減少した。 その内14才以下の子供が1万6000人余りで半数を占めた。避難したくても色々な理由で残った人々は10年後に何が起きるのかを恐れている。
福島・郡山・田村/チョン・ナムグ特派員 jeje@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/522228.html 訳J.S