原文入力:2012/02/19 21:16(2604字)
←1984年光州(クァンジュ)北東聖堂で開かれたチョン・スンチョル氏の結婚式に集まった‘光州、米国文化院放火事件’の主役。左からユン・ジョンヒョン、キム・ドンヒョク、チョン・スンチョル、チョン氏の夫人、パク・シヨン、イム・ジョンス氏。
5・18有功者証書を受け取ったが、裁判所では関連性認定せず
イム氏一人で再抗告… "司法府の歴史意識を正さなければ"
去る17日午前、光州広域市、北区、雲亭洞(ウンジョンドン)の国立5・18民主墓地。 光州、米国文化院放火事件(いわゆる‘光米放’事件)の主役だったイム・ジョンス(53・光州市公務員)氏が同志たちの墓前に焼酎を注いだ。墓の床石上の火を付けたタバコは激しい風でグラグラ揺れた。
イム氏は昨年6月、光州高裁に光米放事件の再審を請求した。この事件の加担者5人が全員‘5・18民主有功者’と認められた以上、放火犯という矛盾したくびきから抜け出したかった。 だが、裁判所はイム氏とパク・シヨン、ユン・ジョンヒョン氏など生存者3人が申請した再審請求を棄却した。パク氏ら2人は‘司法府に期待することではない’として再抗告を取り下げた。 だが、イム氏は「司法府の安易な歴史意識を正さなければならない」という思いで再抗告を選んだ。 この日、先に逝ったチョン・スンチョル(2004年 死亡)氏とキム・ドンヒョク(1996年 死亡)氏の墓を訪ね苦しい心境を吐露した。
"私たちは国家有功者でしょうか? あるいは放火犯でしょうか?"
イム氏は光米放事件の2日後、警察に連行され現住建造物放火容疑で2審で懲役2年6ヶ月が確定し1983年6月に満期出所した。 2審裁判所が‘火をつけたことが正義か’と追い詰めるや、彼は 「歴史の断罪を受けないように判決しなさい」と対抗し実刑に服さなければならなかった。彼が17日に墓を訪ねたチョン・スンチョル氏は1年6ヶ月にわたり逃避したが捕まり5年6ヶ月の刑を宣告された。 キム・ドンヒョク氏は懲役2年6ヶ月に執行猶予4年を宣告されたが、拷問捜査の後遺症で亡くなった。
怒涛の1980年代が過ぎ5・18が民主化運動として再評価を受けたことにより、彼らは2002年に国家有功者証書を受け取った。‘5・18民主化運動等に関する特別法’により再審可能という事実を遅れて知った彼らは昨年再審を請求し、当然に認められると楽観していた。 5・18に加担し有罪判決を受け再審を請求した5・18有功者200人余りがほとんど無罪確定通知を受けていたためだ。だが、彼らに舞い込んだものは思いがけない結果であった。
光州高裁刑事1部は昨年12月26日 「この事件は5・18に関連した行為に該当しない」として再審請求を棄却した。 裁判所は 「目的が正当であっても手段が過度に正当性から外れたと判断した」と明らかにした。 裁判長イ・チャンハン部長判事は「国家有功者を選定する行政的判断と、犯罪有無を問い詰める刑事的観点とは違うこともありえる」とした。
しかしイム氏は 「全斗煥新軍部の光州虐殺蛮行を全世界に知らせ、新軍部を支援した米国政府の責任を問うために火をつけただけ」とし「司法府が放火という手段の過激性と致命性を再審棄却の根拠として提示したが、実際には‘反米’という内容が負担になったのではないか」と抗弁した。彼は「1979年12・12軍事反乱から1981年1・24非常戒厳解除までに発生した一連のデモと抵抗を正当行為と見るのが判例」として「国民の法感情に外れ、有功者の再審を棄却した珍しい事例なので無念だ」と訴えた。
ミン・ビョンノ全南大法学専門大学院教授(憲法学)は「裁判所により決定が変わりうる事案」としつつ「同じ事件を犯した人物を国家が有功者と犯罪者として同時に認める矛盾が発生しないよう‘5・18有功者の当時の犯罪を無罪とする’というなどの特別法を作るならば乖離を減らすことが出来る」と提案した。 光州/アン・クァノク記者 okahn@hani.co.kr
光州、米国文化院放火事件とは
←1980年光州、米国文化院防火事件の主役だったイム・ジョンス氏が17日午前、光州、北区、雲亭洞の国立5・18民主墓地で同志であるチョン・スンチョル(2004年 死亡)氏の墓を訪ね「司法府の安易な歴史意識に警鐘を鳴らしたい」と苦しい心情を吐露した。 写真家キム・ヒョンソン氏提供
光州、米国文化院放火事件は‘5・18民主化運動’が起きて6ケ月後、光州カトリック農民会会員たちが光州、米国文化院建物に火を付けた事件だ。
当時、農民会員だったチョン・スンチョル(25),キム・ドンヒョク(44),パク・シヨン(22),ユン・ジョンヒョン(26),イム・ジョンス(21)氏など5人は1980年12月9日夕、光州、東区、黄金洞(ファングムドン)の米国文化院建物の屋根に上がり瓦を取りはらいガソリンをばらまいた後に火を付けた。彼らは光州都心で行おうとしていた二次農民・学生街頭デモが失敗に終わるや、‘5・18の真相を世界に知らせ武力鎮圧をほう助した米国の責任を問い詰める’という意で決行した。彼らは世界的関心事であったイラン、テヘランの米国大使館占拠籠城に着眼し、当時米国国務長官訪韓の前日に実行日を合わせた。
全斗煥新軍部はこの事件の政治的・外交的波紋を減らすため‘電気漏電にともなう単純火災’として縮小隠蔽した。非常戒厳状態で言論も事件の真相をきちんと知らせられなかった。 新軍部はこの事件の‘5・18との関連性’を否認することに汲々とし、加担者を浮浪者として追いたてたり、放火を‘英雄心理の発露’と追い詰めた。
だが、この事件は運動圏を中心に急速に伝播され、5・18武力鎮圧に対する米国の責任を正面から提起したという点で社会全般に衝撃を与えた。以後82年3月18日、釜山、米国文化院放火事件、85年5月23日ソウル、米国文化院占拠籠城など反米運動が相次いだ。 光州/アン・クァノク記者
原文:
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/519811.html 訳J.S