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[ハンギョレ21 2011.11.28第887号] 大韓民国政府が抱え主だった

登録:2011-11-26 12:05

[表紙の話] 性売買を取り締まるフリをして女性を外貨稼ぎ手段と考えた韓国政府…韓国戦争時に慰安所を設置し、独裁政権は駐韓米軍・日本人対象の性売買を助長した(3825字)


□ キム・ギテ


大韓民国で性売買は不法だが不法でない。歓楽街の一画に派出所が共存する奇怪な風景は我が国で事新しくもない。こういう乖離はどうして生じたのだろうか?


答えるためには先ず国家の二重的性売買政策を見る必要がある。パク・ジョンミ漢陽大HK研究教授(社会学)が今年書いた論文‘韓国性売買政策に関する研究’は性売買に対する国家の意図的沈黙と統制過程を暴いた。400ページを越える分厚い論文の中で大韓民国政府は性売買に一方では不法化の烙印を捺しながら、他方では放任したり時には積極的に‘抱え主’の役割までした。

←<ハンギョレ>資料写真


国連軍のための慰安所運営


性売買を巡る国家の二重的態度は1946年の米軍政期まで遡る。日本帝国主義を追い出した米軍政はそれまでの植民統治との差別性を打ち出す必要があった。1946年5月17日に宣言された‘婦女子売買または、既売買契約の禁止令’はそのような背景から出された。公娼制を維持した日帝とは明確に一線を画する措置と見えた。新生国家の市民たちはこれを歓迎した。1946年5月28日付<東亜日報>は「朝鮮が解放された以上…遊郭の女性たちが解放されなければならないのは当然のこと」と報道した。

←<京郷新聞>記事


実際の米軍政の意図は違った。ロチュィ軍政長官は「(禁止令が)公娼の廃止ではないのはもちろん私娼には何の関係もない。 …自分自身が自発的に結んだ契約下で従事することは関係ない」と明らかにした。すなわち個人が他意によって性売買をすることになるのは不法だが、自発的に性売買をするならば公娼であれ私娼であれ関係ないという言葉だった。米軍は反対に日本強制占領期間から維持されてきた接客女性を対象とした登録・検診関連規定をそのまま維持した。米軍政の関心は韓国の性売買女性と接触した米軍人の間で広がる恐れがある性病を統制することに限定された。


公娼制度を公式に廃止した側は新生国家の立法府であった。南朝鮮過渡立法議員は1947年8月‘公娼制など廃止令’を通過させた。'性売買禁止主義’を法として明らかにした最初の事例であった。 ところが法の力は微小だった。 1948年1月<京郷新聞>は "予算は皆無状態で、中央庁に対し国庫補助を要請したがこれが見込みがなく慨嘆ばかりしている" と報道した。


←1960~80年代、キーセン観光は韓国の羞恥であり金脈だった。1970年代外国人観光接待女性を対象に登録証(写真 中)を発給し人権侵害論争が起きた。1980年代キーセン観光に反対するデモ(写真 上)が起きた一方で、政府は米国雑誌記者によるキーセン観光業者取材(写真 下)に協力した。 <東亜日報>記事


戦争を経て国家は自ら法を破った。政府の1956年資料を見れば、陸軍本部はソウルと江陵(カンヌン)など4ヶ所で慰安所を運営していた。 資料で確認された‘慰安婦’ 数は79人だった。1952年この女性たちを訪ねた男性は延べ人数が20万4560人だった。 陸軍本部は "(兵士たちが)異性に対する憧憬から引き起こされる生理作用による性格変化などでうつ病およびその他の支障を招くことを予防するために" と趣旨を説明した。 チェ・ミョンシン将軍も回顧録<死線を越えて又越えて>で「当時我が国の陸軍は志気高揚のために60人余りを1個中隊とする慰安婦隊を三,四ヶ運用した」と書いた。
政府は国軍だけでなく、国連連合軍のための‘慰安所’も運営した。<釜山日報> 1950年9月の記事によれば、馬山市(マサンシ)が "数日内で市内に連合軍の労苦に報いる連合軍‘慰安所’ 5ヶ所を新・旧馬山に設置することになり、これの許可証をすでに発行した" 。当時政府保健婦防疫局で出した‘清掃および接客営業衛生事務取り扱い要領’資料にも連合軍慰安所と慰安婦に対する指示事項が含まれている。 政府が性売買を斡旋した‘抱え主’の役割を引き受けたと証言する文書は悲しいことに多数溢れていた。


米軍の代わりをした日本人‘キーセン観光’


1960年代に登場したパク・チョンヒ政権は‘革命公約’で性売買取り締まりを強化すると公言した。 1961年に制定された‘性売買行為等防止法’は新しい政権の意志を示した。21条からなる性売買行為防止法は国家の性売買禁止原則を再確認したものだった。しかし翌年6月、保健社会部は全国104ヶ所に性売買を許容する‘特定地域’を設置し、その内 9ヶ所をソウルに割り当てたと発表した。一つの口から二つの話は簡単に出てきた。


国家はなぜ性売買禁止原則を守れなかったのだろうか? 1961年交通部企画調整官室が出した公文書を見ればそこに答がある。公文書は「現在、我が国で最も容易に誘致できる観光客は駐韓国連軍」として"外国人相手ホステス"を対象に教養講習を推進するという内容が含まれている。当時、米軍兵士は主に日本や香港に休暇に出かけていた。1961年3月13日<東亜日報>は“我が国により多くの外貨を落とすようにするという見地からはすべての消耗品を国産で充当することが理想的かもしれないが…酒も外国酒で、裸になった女の子も外国のお嬢さん、その上外貨まで使うとは…”と嘆いた。国家の先決課題は‘裸になった女の子’を‘国産’に代えるということだった。 1962年4月25日付<ソウル新聞>はソウル市警が“4千人に及ぶ観光接客営業所(ダンスホール・キャバレーなど)のサービス ガールたちに対する接客業務教育を実施”したとし、その理由が“外国人により効果的なサービス”を提供するためのものだったと報道した。


1966年<新東亜>の記事はもっと率直だった。“洋公主(欧米人相手の接待婦)が持つ巨大な力がある。日陰に咲いている彼女たちはアイロニカルにも我が国の国家政策の至上課題となった感のある外貨獲得の一つの担い手になっている。” <新東亜>は当時全国190ヶ所の国連軍専用ホールから出てくる外貨が1年に1千万ドルに達すると推定した。 1966年当時、我が国が貿易で稼ぐ外貨は2億5千万ドルであった。


1970~71年駐韓米軍の規模が1万8千人減った。 政府では非常事態になった。 1971年8月、内務長官が各警察に送った公文書で“保健当局と協力し慰安婦の性病予防策を講じ…教養を強化”しろと指示した。 ところが去りゆく米軍を捉えることはできない定めだった。米軍の空席は‘キーセン観光’をしに来た日本人が満たした。 1965年韓-日修交が契機であった。 キーセン観光が絶頂に達した1977年に韓国を訪れた日本人の96.8%は男性だった。 経済成長に没頭した政府は観光収入と観光客目標値を提示した。 一線旅行斡旋業者にも‘割当量’がくだされた。目標を達成できなければ各種恩恵が消えたり、甚だしい場合には許可が取り消された。 1979年<新東亜>は“脱線観光がきわめて当然に当局の黙認の下に成り立つ。 …妓生パーティーはほとんどすべての日本人観光客らに提供された”と報道した。 もちろん政府も継続的に一役買った。 1972年ソウル市の資料を見れば、基地村接客営業所女性512人、観光料亭接客営業所女性1795人を対象に教育した記録が残っている。


国家の先決課題は‘裸になった女の子’を‘国産’に代えることだった。<ソウル新聞> 1962年4月25日付にはソウル市警が“4千人に及ぶ観光接客営業所(ダンスホール・キャバレーなど)のサービス ガールらに対する接客業務教育を実施”したとし、その理由が“外国人らにより効果的なサービス”を提供するためのものだったと報道した。


今日も変わらない国家の原罪


1980年代、国内経済が成長しながら内国人性売買‘顧客’の比重は増えた。1982年に夜間通行禁止が解除され、1984年には奢侈性遊興業所に対する規制を緩和した。性売買業者が育ちうる土壌はより一層肥沃になった。米国スポーツ週刊誌<ザ・スポーティング ニュース>は1985年10月ソウル オリンピック特別号で韓国料理を紹介し、あるホテルのレストランで開かれた‘妓生パーティー’の写真を載せた。 当時取材過程で政府が便宜を提供した事実が明らかになり波紋が生じもした。 キーセン観光を通じて観光客を誘致しようとする‘政策’は当時までも維持されていた訳だ。


事実上スローガンに終わった政府の性売買禁止政策は1990年代と2000年代を経て少しずつ効力を発揮した。 1996年‘堕落防止法’と2004年‘性売買禁止法’は主要な契機になった。 しかし相変らず性売買という違法は‘慣行’というマスクをかぶり2010年代の大韓民国の通りを闊歩している。 その背景には国家が自ら行った‘原罪’がある。


キム・ギテ記者 kkt@hani.co.kr


原文: http://h21.hani.co.kr/arti/cover/cover_general/30838.html 訳J.S