原文入力:2011/06/10 01:35(4498字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
私の家内のように革命をあまり好ましく思わない人々と革命に関する話をすると、最もよく反論されるのは、「革命家たちは果して一般の人たちより特別に善良なのか」と言う類の論拠です。この論拠が具体化される時、朝鮮の最近の歴史をめぐる「革命家たちの哀れな末路」に関する話が次から次へと出てきたりします。事実、一時南労党の党員だった朴正煕から一時 呂運亨系の若い活動家だった金大中まで、南韓の大統領たちだけを見ても、(準)革命家としてスタートしたり一時は「デモ隊」だった人々が決して少なくありません。大統領レベルまで行かなくとも、韓国の保守陣営の半数近くが「転向した革命家/急進主義者」という印象を受けるほど、一時期は「命を賭けて運動に取り組んだ」多くの人々の末路は惨めなものです。まあ、今の孫鶴圭(ソン・ハッキュ)や李在伍(イ・ジェオ)などを見て、偽装就職、指名手配、拷問などのイメージを思い浮かべることは難しいですが、彼らがまさに「命を掛けた急進活動」でその名を売ったことだけは歴史的に明確な事実です。「転向した革命家」たちも目白押しに最近の朝鮮史のページを飾っていますが、「信念を貫いた革命家」だからといって必ずしもそれよりましともいえません。北朝鮮の晩年の金日成主席や許貞淑(ホ・ジョンスク)祖国平和統一委員会副委員長などを見ても必ずしも中国における命がけの武装抗日独立闘争のイメージはすぐには連想できません。悠々とした貴族の姿が見え隠れすると言ったら言い過ぎでしょうか。とにかく転向をしようが「目的を達成」しようが、惨めな姿に成り果ててしまった革命家たちをあまりにも多く目にするわけです。金南柱(キム・ナムジュ)先生のように、敵の捕虜になり拷問や拷問のような投獄の後遺症で、この狂ってしまった世を早く去った方々がかえって最も幸せだったように思えるほどです。そうだとすれば、私の家内の言う通り、「いくら革命家といっても同じなのだ。一般人に比べて特に善良でも道徳的でもない。道理で、そういう人間たちの導く革命もたかがしれたものに違いない。権力は変わっても社会は根本的には変わらないだろう」という話が成り立つということでしょうか。
実は、このような反論に直面すると、私は正直に絶望よりはむしろ希望を感じます。なぜでしょうか。なぜなら「革命家たちの道徳性」を常に問うほどに、一般人の脳裏に「革命家は元来道徳的でなければならない、革命家はモラリストだ」という等式が成り立っているからです。「革命」と「道徳」が当為として繋がっていることそれ自体は既に極めて大事なことなのです。私たちは革命家たちに大変多くのことを求めます。ほとんど求めすぎではないかと思うほどです。たとえば、現代自動車資本の組合活動を妨害され続け くたびれ果てた組合活動家が結局自らの命を絶てば、私たちは果してこの「資本による社会的他殺」に対してはどれほど怒るでしょうか。いくら怒ったところで、現代自動車を完全に捨てボイコット運動を展開するほどではないのではないでしょうか。「進歩的な大統領」盧武鉉の治下で警察の野蛮な過剰鎮圧で二人の農民(ゾン・ヨンチォル、ホン・ドクピョ烈士たち)が非業の死を遂げた際、果して盧武鉉に対する支持を撤回した人々は多かったのでしょうか。資本と国家は多かれ少なかれ殺人的だということに我々が最早慣れているわけです。逆に、「急進的な反対派」がこのように振舞ったら、社会の世論は急激に悪化するでしょう。1997年に韓総連(韓国大学総学生会連合)の活動家たちによって引き起こされた、警察のスパイと目されたイ・ソクさんのリンチ殺人事件に対する社会各界からの反応を思い起こしてみましょう。実際、韓総連はあの時解体されてから再び息を吹き返すことはできませんでした。このような「二重基準」は一面においては不公平ではあるものの、ある一面においてはそれだけ「進歩」「急進」「革命」勢力に対する一般人たちの「道徳性」への期待が大きいということです。その期待にまともに答えられさえすれば、急進勢力は相当な社会世論のヘゲモニーを握ることができるのです。問題は、「革命家は道徳的でなければならない」という期待にいかに答えうるか、「革命家の道徳性」をいかに守り抜くのかということでしょう。
私の家内の言葉は基本的には正しいです。革命家だからといって、神でも生まれつきの英雄やモラリストでもまったくないのです。革命家とは、社会の構造的な矛盾を捉え、非抑圧階級の側に立ってその矛盾を行動的に正そうとする歴史的な行為者にすぎません。革命家の自覚や行動能力以上にその矛盾が深刻であったり、それを覆い隠す国家の抑圧体制が極めて高度化すれば、革命家も仕方なく活動をあきらめるか、国家に降伏する可能性は高いのです。たとえば、太平洋戦争期に「高等安保国家」/「総動員国家」日帝が多数の民衆の抵抗を完全に封鎖し、多くの民衆を「積極的な侵略の共犯」にするのに成功した状況では、極少数を除いた多くの共産主義者、社会主義者、アナーキストたちが転向してしまったことはよく知られた事実です。革命家だからといって、もちろん「超人的な能力」を保有しているわけではありません。また、ある状況において権力体制内でそれなりの「持分」を取得するようになった場合は、多くの革命的なキャリア保持者たちはそこに安住したりします。1930~40年代の不屈の革命家だった宮本顕治先生が1950年代後半以降は日本共産党の指導者になり共産党を急進性の欠けた議会主義政党に作り変えてしまったことはよく知られた事例です。単独で権力を独占した革命家の保守化傾向はより一層濃厚です。「ロシア民族の優秀性」の宣伝と「根無し草的な世界主義者」(すなわちユダヤ人などの少数者系統の知識人)への反対闘争に没頭してしまった1940年代後半~1950年代初頭におけるスターリンの理念的な姿は、「革命家」というより最も典型的な破廉恥なショービニストそのものです。まあ、成功的な権力奪取ないし権力体制への編入より「革命的な道徳性の保持」の方がはるかに難しい課題ということでしょう。どうすればこの課題をなんとか乗り越えることができるのでしょうか。
共産主義者の最終目標は、国家権力の奪取でもなく国家権力構造への参加でもなく、まさに国家そのものの消滅なのです。資本の支配する社会でない以上、近代国家や「民族」「国民」などを必要としません。もちろん、誰かが列車から水力発電所までの大量産業施設を計画的・体系的に運営しなければなりませんが、これは国家機関でない地域社会が民主的に組織することでいくらでもこなせることです。全体的に生産と分配を地球レベルでそれなりの計画に即して進めていかなければなりませんが、それも地域社会の地球的な連合が成すべきことなのです。地域社会であれ地球的な地域社会の連合であれ、民衆から疎外された暴力機構(軍隊、監獄、安保機関など)はいかなるものであれ、備える必要などありません。共産主義の正確な定義は、「世界レベルの無国家的な計画的生産、分配の社会」です。しかし、これは我々の最終目標であり、明日にも現実的に建設できる社会ではありません。国家/資本と国民、民族、軍隊が未だにこの地球を壊している今日においては、共産党であっても、これらとは各種の「相互作用」を結ばざるをえません。ブルジョア新聞などと競争しながら急進的な新聞を出すことから、ブルジョア政治を暴露するためにでも国会に入って活動することまで、今日の共産主義活動家の日常は資本と国家などとの「関係」を必然的に持つことを特徴としています。まったく望ましくない現象ではあるものの、空想的な社会主義者たちのように無人島や荒れ地などを利用し「理想的なコミューン」を作ろうとしないかぎり、仕方のないことでしょう。また、ブルジョア国家が深刻な亀裂を生じさせた場合は、いつか急進活動家たちが―20世紀初頭のボルシェビキたちのように―もしかすると国家を運営する位置に立つかもしれません。正確にいうと、ボルシェビキたちはロシアという(後進)国家を運営するよりは、世界革命を望んでいましたが、彼らの望みどおりにはならなかったため、結局彼らは権威主義的であらゆる矛盾に満ち溢れた国家の「管理者」になりさがってしまいました。
革命家が国家と「平和共存」しなければならないことも、非常時に「国家の管理者」になることも実は悲劇なのです。国家とは最悪の毒薬であり、国家との「関係」の中で活動をするかぎり、革命家の道徳性は犯される一方であり、まったく得にはなりません。国家が備えている各種のアビトゥス(身分秩序的な命令体系、現実追認的な人間的態度、現状維持優先の思考など)は「革命」が求めるものなど(民主性、自発性、すべての拘束からの解放など)と正面衝突するからです。議会政党に入った急進主義者が、約10年間の議会活動の末、少しでも「官僚的な思考」に汚染されなかったとしたらそれは奇蹟でしょう。実質的な機能を持つ議会さえも不可能な後進農業国家で権力を独占するようになった革命家集団であれば、少しでも過去の貴族支配者たちに似ていかなかったらそれもやはり奇蹟に近いことでしょう。それでは、国家との「係わり合い」が避けられない世界で果して解決策はあるのでしょうか。まさに、国家とは意識的に「距離を置くこと」と国家との「取り引き」が避けられない革命集団の指導層への「下」からの徹底的な監視、民主的牽制しかありません。一応我々は福祉国家を目指して闘ってはいるものの、それはあくまで不可避な必要最小の綱領であり、窮極的な目的地ではまったくないことを先ずきちんと覚えておかなければなりません。そして民衆言論はもちろん国会などに進出した民衆運動の指導部やブルジョア言論まで、相対さなければならない進歩的な「名望家」に対しては容赦なく批判しなければなりません。私みたいに、穏健派自由主義者たちの機関紙ともいえる『ハンギョレ』に寄稿する人々からよく監視し、少しでも妥協的なにおいがすれば容赦なく叩かなければなりません。そうしなければ、物書きが腐っていくことを防ぐことはできません。もし革命家たちがある国家で権力を握るようになった場合は、その一次的な目的は「国家運営」より世界的革命運動の支援でなければならないでしょう。革命が世界的に広がっていく過程においては革命運動の内部はそれなりの民主性を保持することができますが、「革命モード」から「国家運営モード」へと切り替わってしまったら、スターリン大元帥や金日成主席の出現は最早歴史的な必然なのです。水は澱めば腐ります。革命の水は、絶え間なく流れなければなりません。
原文: 訳J.S