原文入力:2011/01/21 午前07:58(4266字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
伝統的にマルクス主義者たちは資本主義世界を分析する重要な枠組みとして「搾取」、すなわち剰余価値の取得という観念を利用します。もし私たちの分析対象を拡大再生産の世界、すなわち「仕事」の世界に限定すれば、これは当然最も相応しい分析枠になるでしょう。私たちは「企業人」という少なくとも中立的に聞こえる語彙をよく使いますが、不動産投機で儲けたお金で自動車部品工場を作り、労動者たちに百万ウォン以下の月給を与えながら月々数千万ウォンの利潤を上げる人たちは確かに搾取者に他なりません。しかし、この世界は単なる搾取/被搾取の関係だけでは説明できない部分も多いのです。たとえば、中心部勢力の侵略を受ける周辺部―イラクやアフガン―の民衆たちは直接的な搾取を受けているというより、その地にある地下資源を奪われたり(イラクの場合)、その地政学的な位置を狙う帝国主義者たちの直・間接的な支配を受けているわけです。搾取、強奪、支配のほかに資本主義世界のもう一つの重要な関係軸は周辺化です。たとえば、もう市場に売るべき労動力を保有しない、すなわちこれ以上搾取する価値もない老人たちは廃棄物のように社会の周辺に追い遣られ貧困(韓国の年寄りの約40%は国家の定めた基準に照らし合わせても貧民に属します)と社会的な差別の中で人生の寂しい下り坂を歩んでいかなければなりません。ゴミ扱いされ自暴自棄になった老人を自殺に追い込むことにおいては先進化している私たちの祖国は、言うまでもなく世界一流で世界の名門です。1998年までは年間50人に過ぎなかった、80歳以上の老人の自殺率(10万名当たりの自殺者数)は、すでに115人程になり12年間で130%の成長率を示すほどなので、韓国資本主義の管理者たちは自ら祝うだけのことはあるといえるでしょう。これほど早いスピードでこれほどたくさんの「ゴミ」たちに自ら世を去るよう仕向け、社会の「亡国的な福祉支出」をかくもうまく減らしている支配者たちは世界のどこにも存在しないからです。「亡国的な福祉ポピュリズム」という怪物と勇敢に戦っている偉大な我が指導者たちの記念碑的業績なのです!
搾取、強奪、支配、周辺化ないし廃棄物化のほかに、資本主義世界を特徴付けるもう一つの重要な関係軸はすなわち脱人間化です。この社会のかなりの部門では正常な人間は正気のままでは到底生きていけないため、各分野の従事者たちを常に非正常な精神状態に追いこむ必要があるということです。たとえば、民衆に定期的に棍棒の洗礼を浴びせなければならない戦闘警察官や義務警察官たちはこのようなことを正常な心身状態でこなすのは非常に難しいため、彼らの部隊では殺人的なレベルのリンチを放置ないし助長し、そこに運悪く放り込まれた被支配層の若者達を恒常的な恐怖状態に陥れるのです。彼らはもし棍棒の洗礼を一生懸命浴びせなければ殺人的な殴打や様々な侮辱に晒されることを知っているため、仕方なく父親のような年老いた労動者や農民たちに残酷なことをせざるを得ないわけです。軍隊は言うまでもなく脱人間化の先駆的な実験場ですが、ほかにスポーツ界や芸能界もこのことに関しては必ずしも負けてはいません。殴打を受けたり酒席の世話や性接待を強要されるこの方面の従事者たちは、体を壊してでも競争者に打ち勝ち自分の値段を上げること、そしてセクシーな体と私生活さえも商品化させることで出演するドラマの視聴率を上げスポンサーの収益を伸ばすことを結局当然の「一生一業」として受け容れなければなりません。脱人間化しない限り不可能なことでしょう。
ところが、もしかすると軍隊やスポーツ界、芸能界よりさらに徹底的で悪質的な脱人間化の現場は他でもない一般の学校です。軍隊に引っ張り出されたりプロスポーツや芸能界に体と心を売る人々は少なくとも10代半ば以上であるため、非人間的な世界に消極的であれ抵抗したり、最も困難で怖しい部分を適当に避けるなど、それなりの「生存技術」を身に付けることができます。しかし、幼稚園時代から精神病的な「競争教育」に晒されている子供たちは、彼らとはまったく立場が違います。親をまだ宇宙のすべてだと思っている10代以下の彼らは、親たちの強要により意味もさっぱり分からない英語の歌を完璧に覚えなければならず、友達をライバルと見なし競争的に数学の問題を解くことに沒頭しなければならないのです。互いに愛し合い 労わり合うことを学ばなければならないこの年頃に男児は「人生は戦場、男は戦士」という適者生存的な哲学の次元ですでに「国技のテコンドー」を身に付け「殴られる子」ではなく「殴る子」に成長しなければならないということです。殴りたくなかったら?それなら、無数の死骸を踏みにじり「最も尊敬すべき企業人」や「支持率1位の政治家」になる「最高」たちだけが生き残れる、この偉大な先進国で「真の男」として生きることをあきらめ、落伍者や周辺分子としての生を甘受するか、移民の準備などに取り掛からなければならないのです。ほかに無間地獄があるでしょうか。ところが、その無間地獄の中でも子供たちを「最も尊敬すべき企業人」ではなく正常な人間として育てようとする父母や教師たちに今、朗報が一つ飛び込んできました。スホムリンスキーの全人教育論である『先生に差し上げる100の提案』が数日前にコインドル出版社から出たそうです。スホムリンスキーの教育こそが競争教育に対する最も体系的で最も完成度の高い代案なのです。
半生をウクライナのある田舍の学校で校長として送ったバシリ・スホムリンスキー(1918~1970、彼の教育論に関する研究などはここにあります:)は、硬直性の高いスターリン主義の官僚体制下を生きてきたにもかかわらず、彼の教育論は共産革命本来の人道主義的な理想から出されたものであり、教育官僚たちの相当な抵抗を受けたりもしました。その抵抗と妨害にもかかわらず、スホムリンスキー教育論がソ連や東欧などに広く知られ、スホムリンスキーは社会主義労動英雄称号を受けるなど、わりと公式的に認められたのは、彼の教育論が現場教師と父母たちの爆発的な呼応を受けたからです。彼の名著『子供達に私の心臓を捧げる』(英訳本はここにあります:http://www.gyanpedia.in/Portals/0/Toys%20from%20Trash/Resources/books/Vasily.pdf)は早くもベストセラーになったのです。まるで今の私たちの先進的な祖国における処世の本のように。ただし、その内容は私たちがソウルの書店街でのベストセラーコーナーでよく見かける処世の本などとは正反対です。スホムリンスキーの教育論の要諦は、美しさに対する喜び、知識に対する喜び、他者との連帯に対する喜びが分かり、その喜びを他人と分かち合える真の意味における共産主義的な人間を育てることにありました。大韓民国では太極旗に対する敬礼や愛国朝会がありますが、スホムリンスキーの学校における毎日の主な行事は教師と子供たちが一緒に森や野原に出かけることでした。そこで子供たちはせせらぎから偉大な音楽を聞き取ることを学び、飛び回る蝶の姿から自然の中での均衡や合理性を見つけ出すことを学び、雲と風のシンフォニーを学びました。この「自然授業」の結果は?子供たちは自然に接して感じた自分たちの感想を紙に絵を描いて発表し、ほかの子供たちの絵を見ながらそれぞれの自然愛に目覚め、互いに自然に対する話を交わしました。
スホムリンスキーの教育は、勉強ができる子供たちが少しのろい子供たちに個人指導をしながら彼らを助ける連帯主義の教育だったのであり、化学や生物学の抽象的な原理を自然の中に入って見つけなければならない実事求是的な教育で、理論の勉強のみならず肥料や飼料を作ったり飛行機や船の模型を直接作る実技教育であり、徹底的に子供たちの水準と個人の特性、年齢的な特性に合わせられたオーダーメード型教育でした。高学年の子供たちは教科書のほかに大衆的な科学書を耽読しながら物理学や数学の最もおもしろい部分に対する個人的な関心を持つようになる一方で、低学年の子供達は木とリスの間にどんな話が交わされたのかを想像し、それを「創作童話」形式で発表し自分たちの創造力を鍛えました。農民の子供たちであるスホムリンスキーの弟子たちは、授業を終えて家に帰った後も親たちに「面白い物理学の原理」を大衆的に説明しながら学ぶことの喜びを他人と分かち合うことを学びました。彼らが自分の個性に合う分野を選びその分野で自分の創造力を発揮するなど、徹底的に「個人」として成長しましたが、それと同時にその創造力を利用し他人を喜ばせることを学びました。つまり、彼らには「個人」と「集団」の間の葛藤は存在しなかったのです。もちろんこのような学習が可能だったのは、たとえ官僚化されたとはいえ、とにかく個人の資本家が存在せず民衆の生計が保障されている社会主義祖国が存在したからです。
スホムリンスキーが逝去してすでに40年あまりが経ちました。彼の愛した社会主義祖国が崩壊した跡には、下はマフィアにより 上は安保屋たちにより各々管理される最も野蛮な資本主義が入り、原子化され恐怖に囚われた人々が生き残ろうとして絶望的に足掻いているのです。にもかかわらず、彼の教育理論が引き続き関心を集め学習される限り、私たちには相変らず希望は残っています。いつかこの野蛮の時代が終わりを告げ、より良いレベルで官僚制の弊害のない民主的な社会主義をもう一度建設しうるという希望です。社会主義なしには生きていけない、社会主義を空気のように必要とする人間たちが成長されれば、昔の革命歌謡の一節どおり、いつか「人類の黄金時代」が再び訪れてくるでしょう。それを信じなければ、どうしてこの苦痛の海で食糧を減らしながら亡国の流民である恥ずかしいこの身がずっと生きて行けるでしょうか。