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「嫌中」という病気をどう治療するのか【朴露子の韓国、内と外】

登録:2025-04-30 20:47 修正:2025-05-01 11:17
イラストレーション:キム・デジュン//ハンギョレ新聞社

 2025年4月17日、私は数カ月ぶりに懐かしい韓国の地を再び踏むことになった。セミナー参加の件があってイースター休暇を利用してソウルに行ったのだ。韓国に再び来たことは非常に嬉しかったが、まさにその日の夕方にとても衝撃的なニュースに接することになった。 「尹アゲイン」(Yoon again、尹錫悦を再び) 集会を開いた尹錫悦(ユン・ソクヨル)前大統領の一部の狂的支持者たちが、その日の夕方、集会解散後に建国大学近くの俗称「羊肉串屋通り」に向かった。彼らは主に中国同胞が運営する店舗や食堂が密集した通りで、住民たちを相手に「中国に帰れ」などの暴言を浴びせ、騒ぎを起こしたのだ。衝突の末、ある店の中国人スタッフは胸の痛みを訴えて病院に運ばれた。日帝強制占領期の朝鮮でたびたびあった中国人への物理的暴力の影を、植民地解放後としてははじめて、まさに「再び」見ることになった。

 日本で行われている極右「在特会」の妄動にそっくりなこうした暴挙は、果たしてどのようにして帝国主義的暴力の被害者たちの子孫たちによって犯されることになったのだろうか。「在特会」の暴力は植民地主義的人種主義にその起源があるが、韓国の俗称「嫌中」(中国と中国人に対する嫌悪)もやはり歴史性を持っている。近代に入り、朝鮮が日本帝国主義による侵略の対象になると、朝鮮の近代主義者たちにとって過去の地域的宗主国だった中国は、早く抜け出さなければならない「前近代」であり、早めに距離を置かなければならない「他者」の代表となった。よく知られているように、独立門の「独立」とは中国(清)からの独立を意味するものであった。 また、1882年の壬午軍乱後に中国人が朝鮮に流入し始めると、開化派は当時、中国労働者の流入を阻んだ新しい「文明の中心」すなわち米国に劣らず彼らに残忍に接することを「近代人の美徳」と考えた。

 「清人(中国人)たちは開化した国に行っても彼らの野蛮な風俗を改めず、その国の人と最初から交われない扱いを受け、その国ので最も卑しい人種になっているのに、どうして交際などできるだろうか。近年、清人たちが朝鮮に来はじめ、朝鮮の人々がすべき仕事やすべき商売を奪い、ただでさえ汚い道をさらに汚し、阿片を朝鮮の人々に見えるように吸うので、清人たちが朝鮮に来ることは少しも利益にならず(……)朝鮮の人々ができる仕事を外国人がやってきて奪い、金を貯めて故国に帰るなぞ、蛭(ヒル)と相違ない」

 昔風の言い回しさえなければ最近の「嫌中」ビラとあまり変わらないように見える文だが、これは徐載弼(ソ・ジェピル 朝鮮の文臣、大韓帝国の政治家・ジャーナリスト・独立運動家・義士)が書いた文と推測される「独立新聞」1896年5月21日付論説の一部だ。当時、強者だった米国人を羨望し、自ら彼らに似ていくことを望んだ開化派の人々の中国人蔑視観も、当時の米国人の人種主義的中国観とあまり変わらなかった。華僑の事業家をライバルと認識した日本による植民地時代の「東亜日報」、「朝鮮日報」も華僑をしばしば「阿片密売」、「人身売買」、「不正行為」などと結びつけ「危険で汚い人」と描写した。中国人の主人公を「朝鮮の女性を性的に搾取し殺した」悪漢として描いた金東仁(キム・ドンイン)の「ジャガイモ」(1925年)のようなその時代の文学作品にもそのまま現れるこうした認識の枠組みは、マスコミを通じて一般人に「常識」として伝えられ、「万宝山事件」(1931年)という名で知られた華僑虐殺の一つの背景になった。

 しかし中国と中国人に対する嫌悪・排除と同時に、朝・中連帯も花開いた。同じ朝鮮の日刊紙は中国革命に対して強い関心を示し、「アリラン」の主人公である金山(キム・サン、張志樂 1905~1938)や中国革命の最も優れた作曲家である鄭律成(チョン・ユルソン、1914~1976)に象徴される多くの朝鮮の志士たちは、わが身を顧みず中国革命の現場に駆けつけた。その現場では共に戦い、共に暮らし、共に死ぬこともたびたびあった。後に北朝鮮という国家の「核」になった金日成(キム・イルソン)部隊(東北抗日連軍第1路軍第6師)も中国人と朝鮮人が混じった連合部隊だった。革命的連帯以外にも朝鮮の華僑との事業上の協力などもあった。日本による植民地時代の朝鮮は、それだけかなり国際化された多民族社会だった。

 排除と連帯、そして協力の「三重奏」は解放後も続いた。1990年代までは、中国に対する反共主義宣伝と朴正煕(パク・チョンヒ)らによる華僑の商業活動の抑制策などに象徴される排除の方が優勢だった。中国との国交樹立後、広大な中国市場が開かれ、中国同胞をはじめ数十万人の中国公民が韓国国内に移住し始めた1990年代から、何よりも共同の利益を図る協力のコードが主導的だった。しかし米中対立が本格化し、THAAD(終末高高度防衛ミサイル)システム配置が問題として浮上した2017年から中国の反発に直面した韓国の保守は、再び1945年以前の中国嫌悪を連想させる排除モードに退歩したのだ。さらに大きな問題は、マスコミによってその情緒が普遍化したということだ。

 中国人に対する排除と嫌悪は、1945年以前にも百害あって一利なしだった。共に手を握り抗日に立ち上がった中国人と朝鮮人の間に軋轢が生じることを希望したのは、むしろ日帝だった。今も分節化しつつある米国覇権以後の混乱した世界の中で生きる道を探さなければならない韓国としては、中国は協力の対象であって、排除の対象では決してない。韓国に来て、なくてはならない韓国社会の構成員になった中国同胞を含む中国公民たちは、当然連帯の対象にならなければならない。このような協力と連帯が可能になるために、韓国の知識人社会がまずしなければならないことは、これまでの中国と中国人に対する認識などに対する省察と反省だ。米国の人種主義的な中国観に従い、日帝の朝中仲違い政策に歩調を合わせ、中国人を悪魔化した韓国メディアの過去も反省の対象にならなければならず、「万宝山事件」のような中国人虐殺に対する反省的言及も教科書に載せなければならない。嫌悪という社会の病気を治療するための最も良い薬とは、まさに過去の事実を直視し、反人権的行動の再発を防止するために最善を尽くし、連帯と協力本位の未来に向かって共に進むことだ。

/ハンギョレ新聞社
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)オスロ国立大教授・韓国学 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1194997.html韓国語原文入力:2025-04-30 08:35
訳J.S

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