(1のつづき)
小学校を卒業したばかりの子どもが父親の代わりに動員されたり、作業中に怪我をしたりすることもしばしばあった。西帰浦市安徳面倉川里(アンドクミョン・チャンチョンリ)で小学校を卒業した直後に労務動員されたカン・ヒギョンさんは、「私たちはコドモブタイ(子ども部隊)と呼ばれた。1945年5月に父が病気なので代わりに行ったのだが、地理を知らなかったので母が連れて行ってくれた。私たちは1カ月そこにとどまって高射砲陣地の下の洞窟を掘った」と話した。
済州市翰林邑月林里(ハルリムウプ・ウォルリムリ)のキム・ソンバンさんも、15歳の時に父親や兄とともにアルトゥル飛行場近くの坑道陣地の構築に動員された。つるはしで地面を掘っている時に大けがをしたというキムさんは「父、兄と一緒に動員されたため、家には農作業をする人がいなくて苦労した。父親と同じハンバ(飯場)に寝泊まりし、つるはしでトンネルを掘ってから地面に鉄路を敷き、トロッコに土を積んで運ぶ仕事をした」と語った。
日本兵として徴集され済州道で勤務した済州出身の徴兵者たちも労働を強いられた。朝鮮人徴兵1期生のコ・ソクトンさんは、アルトゥル飛行場の横の簞山(タンサン)の坑道掘りに動員された。コさんは「発破作業につかされたが、作業場から出てくる前に爆薬が爆発したせいで一度死にそうになったこともある。怠けると、日本の軍人たちに歯を食いしばれと言われ、そのあと頬を殴られた」と話した。
この日、大静邑の敬老堂で出会ったムン・ジョンソンさん(94)は、「アルトゥル飛行場に芝生を供出した。1軒当たりいくらと芝の供出が割り当てられた時は、村の住民たちはそれを用意するのに苦労した。そうやってアルトゥル飛行場に芝を敷いた」と振り返った。学校には通わなかったというムンさんの口からは「空襲警報」や「大日本帝国の臣民」という日本語がよく飛び出した。
朝鮮戦争では、飛行場跡は陸軍第1訓練所と中国兵の捕虜収容所として使われた。解放後に所有権が国防部に移された結果だった。1980年代後半には米国の軍事施設が設置されるとのうわさが飛び交ったため「松岳山軍事基地反対闘争」が激しく繰り広げられた。1990年代後半には宇宙センター建設計画のうわさが流れ、住民たちが反発している。
休暇で家族とオルレ道を歩いているというキム・ギュチョルさん(47、京畿道在住)は格納庫を見て回りながら、「済州道にこんなに胸の痛む歴史があるとは思わなかった。記念館もよいが、このまま保存した方がよいと思う」と話した。
済州道は2008年に、このような歴史的な意味のあるアルトゥル飛行場一帯の184万9000平方メートルあまりの土地に格納庫と坑道陣地を整備し、展示館や追悼館などを作るとする平和大公園造成案を策定している。しかし、計画面積の91%に当たる168万平方メートルが国防部の所有地であるため、15年が過ぎた今も事業に進展はみられない。
現在、大静地域の農民たちは国防部の土地を借りて農業を営んでいる。オートバイでジャガイモ畑から帰る途中に取材に応じたチョン・チュノクさん(83)は「50年間ここで農業をしている。400坪(1200平方メートル)を借りていて、1年に7万~8万ウォン(約7280~8320円)ほど払っている。平和公園だとか何だとか、いろいろな計画が出ているようだが、何もできていない」と話した。
済州道のオ・ヨンフン知事は2月15日に西帰浦市を訪れた際に「松岳山遊園地内の私有地を買収し、アルトゥル飛行場一帯に推進する平和大公園造成事業をベルト化する」と表明した。オ知事のこのような構想は、済州研究院が研究事業を受託、遂行し、最近済州道に報告した内容と通底する。済州研究院は「持続可能な松岳山の管理および地域共生の方策」と題する報告書で、松岳山周辺の馬羅(マラ)海洋道立公園や済州オルレなどの観光資源、アルトゥル飛行場などの日帝の軍事施設、済州4・3事件関連遺跡などを連係させて「松岳山平和大公園」を造成しようという意見を提示している。
日帝強占期の研究者たちは「アルトゥル飛行場一帯は日帝強占期の朝鮮人たちの強制動員受難史を示す象徴的な空間であり、4・3や朝鮮戦争をも網羅する歴史的な場所」だとし、「建物中心の公園造成ではなく、強制動員された労働者とその後の歴史的過程を記憶し、平和を考えることのできる記念物の設置こそ、考慮する価値がある」と語った。