(1から続く)
話が嚙み合わず、責任の見分けがつかない大統領
イ・サンミン長官に対する国会の解任建議とマスコミの更迭要求に対し、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領はどう答えたのでしょうか。大統領室のイ・ジェミョン副報道官はブリーフィングで「解任は真相が明らかになった後に判断する問題だという従来の立場に変わりはない」、「犠牲者と遺族のためには真相確認と法的な責任の所在の究明が最も重要だ」と述べました。国会の解任建議はイ・サンミン長官に政治的責任を問うものなのに、「真相確認と法的責任が重要だ」という的外れな答えを並べたわけです。
尹錫悦大統領は一体なぜイ・サンミン長官をここまでかばっているのでしょうか。2つの理由が考えられます。第一に、お気に入りだからです。長官の中で尹錫悦大統領が気軽に電話で話せるのは二人です。ハン・ドンフン法務部長官とイ・サンミン長官です。与党内部の事情に詳しい人たちは、両長官と尹錫悦大統領の(性格や行動の)「シンクロ率」がほぼ100%だと証言します。
第二に、尹錫悦大統領のプライドのためです。国会での解任建議の直後、政府与党では「1月内閣改造説」が流れ始めました。イ・サンミン長官の更迭を含めた内閣改造の見通しです。「私が判断して替えたいときに替える」という尹錫悦大統領のメッセージが伝わったようです。どちらにしても、尹錫悦大統領の考えと態度は正しくありません。主権者である国民と国政のパートナーである野党に負けるわけにはいかないと意地を張ったのに過ぎないからです。
独裁者だった朴正煕(パク・チョンヒ)大統領も1969年にクォン・オビョン文教部長官、1971年にオ・チソン内務部長官に対する国会の解任建議を受け入れました。
金大中(キム・デジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領時代の事例も少し詳しく振り返る必要があります。金大中大統領時代の2001年、国会がイム・ドンウォン統一部長官の解任建議案を議決しました。野党だったハンナラ党が主導し、連立与党だった自由民主連合(自民連)が加わりました。結局、イム・ドンウォン長官は辞任し、金大中大統領は自民連との連立政権を放棄しました。後日、金大中大統領は自伝にこのように書きました。
「9月3日、イム長官の解任建議案が自民連の加勢で可決された。これで自民連との3年8カ月にわたる連立政権が崩壊した。政局は1与2野の構図に再編された。私たちには少数政権の険しい道が待っていた」
「大統領外交・安保特別補佐官にイム・ドンウォン前統一部長官を任命した。野党の激しい反発を予想したが、これは太陽政策を持続するという意志を国内外に明らかにするためだった」
盧武鉉大統領時代の2003年には、国会がキム・ドゥグァン行政自治部長官の解任建議案を議決しました。当時大統領府民情首席だった文在寅(ムン・ジェイン)大統領は2011年、『運命-文在寅自伝』にこのような記録を残しました。
「キム・ドゥグァン長官の在任期間、行政自治部は部署の業務遂行評価と革新評価で1位になるほど、彼は長官職をよく遂行した。しかしハンナラ党は『里長出身の郡守』だとして、絶えず皮肉り、蔑視し、ついに学生デモを理由に国会で解任勧告決議をした。私はあまりにも不当な決議であるうえ、拘束力のない政治的決議なので、キム長官に持ちこたえてほしかった。しかし、自分のために政局梗塞が長期化するのを避けるために、キム長官は自ら辞職を求めてきた。結局、大統領が辞職を受理したが、まさに韓国社会の既得権者たちの横暴だった」
大統領と長官が答えを出す時
そうです。金大中・盧武鉉大統領は野党主導の解任建議を受け入れました。事由が不当だとは思っても、国民の代表機関である国会の議決だったからです。イム・ドンウォン、キム・ドゥグァンの事例に比べれば、尹錫悦大統領のイ・サンミン長官解任はあまりにも当然のことです。20日、梨泰院惨事遺族たちと国民の力のチュ・ホヨン院内代表の懇談会直後、記者団が遺族たちに懇談会でイ・サンミン長官解任に関する話があったのかを尋ねました。遺族の代表はこう答えました。
「イ・サンミン長官が罷免されようが、恰好よく自ら辞表を投げつけようが、私たちには関係ありません。御勝手にどうぞ。私たちも私たちの道を行きます」
これからは尹錫悦大統領とイ・サンミン長官が答えを出す番です。