「一つの戦争、二つの墓」
全羅南道珍島(チンド)の倭徳山(ウェドクサン)慰霊祭が24日、珍島郡古郡面内洞村(コグンミョン・ネドンマウル)の倭徳山前で行われた。珍島文化院と日本の京都平和会の共同主管で行われた慰霊祭には、日本の鳩山由紀夫元首相ら韓日の100人あまりの関係者が参列した。鳩山元首相は追悼の辞で、「日本は一時、みなさまに大きな苦難を与えた。私たちの罪によって苦しめられた人々がこれ以上謝罪しなくても良いと言うまで謝罪し続けなければならない」と述べた。
倭徳山の由来
倭徳山は「倭人(日本人)に徳を施した」という意味を持つ共同墓地として知られている。珍島の民衆は丁酉再乱(慶長の役)中の1597年、李舜臣(イ・スンシン)将軍が率いていた朝鮮水軍との鳴梁海戦で死亡した日本水軍の100体あまりの遺体を収拾し、日本の方向が見えるように埋葬した。しかし、「あえて自慢するほどのことでもない」という考えから埋もれていた話を、珍島文化院のパク・チュオン院長が2002年に三別抄(高麗時代にモンゴルに抵抗した特殊部隊)の抗戦の痕跡を踏査していた際に発掘し、初めて世に出た。パク院長は「内洞村の里長だった故イ・ギスさんに、口伝されてきた倭徳山の話を聞いた。倭徳山は古郡面内山里(ネサンニ)サン162番地、161番地、160番地一帯の全体を指す」と述べた。
倭徳山という名称は民間の記録からも確認できる。パク院長が確保した「昌寧曺氏」の族譜(系図)では、先祖の墓の位置の記録に倭徳山が出てくる。古郡面内洞里(ネドンニ)と馬山里(マサンニ)の中間地点の160番地一帯の昌寧曺氏の門中(共通の祖先をもつ子孫たちの血縁集団)の先山(祖先の墓)に埋葬された42人の墓はすべて、族譜に記録された地名が倭徳山と関係がある。パク院長は「凡徳山(ポムドクサン)、倭徳山、徳山(トクサン)、臥徳山(ワドクサン)、倭徳田(ウェドクチョン)、外徳山(ウェドクサン)などと表記され、人々は『倭徳畑(ウェドクパッ)』または『臥徳畑(ウァドクパッ)』と呼んでもいた」と語った。
日本の鼻塚
倭徳山のことは、2006年に珍島に踏査にやって来た広島修道大学の日隈健壬教授(社会学)の新聞投稿で知られるようになった。日隈教授と学生、日本の市民たちは同年8月15日、倭徳山を訪れた。倭徳山でつながった韓日の民間団体の交流は続き、日本には京都平和会(天木直人代表)が作られた。京都平和会は2016~2019年、日本にある朝鮮人の鼻塚で「耳鼻塚平和祭」を開催した。鳩山元首相は昨年11月、丁酉再乱の当時に朝鮮人の鼻を埋めた墓の慰霊祭に参列し、犠牲者たちの魂を追悼した。
鼻塚(耳塚とも呼ばれる)は、丁酉再乱で日本軍が朝鮮人の鼻を切り落として塩漬けにし、持ち帰ったものを埋葬した墓。22~24日に珍島文化院が「一つの戦争、二つの墓」とのテーマで開催した国際学術会議で、ソウル大学のチョン・ギョンス名誉教授(人類学)は「珍島の倭徳山と京都の耳塚に関する人類学的考察:徳と供養の比較文化論」を発表した。日本の代表的な鼻塚は、豊臣秀吉を祭った豊国神社の正面から約100メートル離れたところにある。チョン教授は「塚の前の石碑(1898年3月20日)からは、鼻塚が造成されて300年を記念して建てられたことが分かる」と語った。碑文には「冥福を祈る」、「敵の鼻を切り」などとある。
チョン教授は日本の史料などを検討し、切り落とされて埋められた鼻の数を5万6476個と推定した。チョン教授は「倭将1人当たり平均で6275人の朝鮮人の鼻を切ったということだが、この数字の3倍を超える倭将が突撃部隊の長だったことを考えれば、切った朝鮮人の鼻の数は明らかになった数字の3倍の20万個と考える」と述べた。チョン教授は「珍島の人々は海から押し寄せる遺体を見て、社会的共同規範として徳を施したのだ」とし、「丁酉再乱という特殊な時間の中で行われた日本軍の行為と連動した鼻塚を、日本文化の特殊性と文化の相対性という観点の中で考察しようと試みた」と述べた。
鼻塚は長い間、耳塚と呼ばれてきた。東京大学の星野博士は「京都の大仏殿前の塚は鼻塚で、耳塚ではない」と明らかにした。1997年9月28日の鼻塚造成400周年学術会で、京都造形芸術大学の仲尾宏名誉教授も、鼻塚の1級史料である吉川家文書にも「鼻の受取状はあるが耳の受取状は1枚もないことからみて、鼻塚で間違いない」と述べている。耳塚という言葉の初出は、江戸時代の儒学者、林羅山(1583~1657)の『豊臣秀吉譜』(1642~1658)。パク院長は「徳川家康に従った儒学者の林羅山が『鼻といえば残忍すぎるから耳と言おう』と建議したため『耳塚』になったという。日本には鼻塚が5カ所ある」と語った。