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[寄稿]韓国の「20・30世代」を考える

登録:2021-04-09 05:55 修正:2021-04-09 08:45
//ハンギョレ新聞社

 4月7日に実施された全国地方自治体首長の再・補欠選挙を見守りながら、前任者の任期が残り1年を務めるだけの小さな選挙について、過度に意味づけられているという違和感をぬぐえなかった。この選挙局面で私の目を引いたのは、選挙結果ではなく、関連世論調査で現われた世代別の民意の行方だった。調査時点や調査方法、調査機関によってかなりの差はあるものの、概ね40代では与党の共に民主党候補が優勢である一方、20~30代と60代以上では野党の国民の力候補が優勢であり、50代では接戦になっているという内容だった。実際の選挙結果ではなく、事前調査という限界があるとしても、これは過去の世代別投票の様相とは明らかに変わったものである。これまでは政治的に中道自由主義的政党(共に民主党)が20~30代で支持を集め、40代以上で保守主義政党(国民の力)が得票数を伸ばすのが一般的現象だったからだ。何よりも注目を集めたのは、昨年の大統領選挙と総選挙の時までも与党勝利の原動力だった20~30代の若者層の反民主党化現象だった。

 もちろん、全く予想できなかったことではなかった。新自由主義の勝者独り勝ちの体制を生きてきた若い世代に強くアピールした現政権の「機会は平等、過程は公正、結果は正義」というスローガンは、「チョ・グク元法相問題」以後、非常に疑わしいものになっていった。それに、最近の不動産価格の急騰と韓国土地住宅公社(LH)職員の新都市予定地への投機などは、失望感を怒りに変えるのに十分だったからだ。しかも、この再・補欠選挙自体が民主党所属の自治体長による性犯罪と推定されるものから始まったことを考えると、若者世代の「政権審判論」の選択はむしろ自然な帰結かもしれない。

 依然として現在の政治構図を「守旧保守対改革進歩」と見なし、民主改革の完成が必要だと考える多くの親与党勢力からすると、若者世代の票心が反民主党を超えて国民の力の方へと移動するのは、なかなか理解できないだけではなく、憂慮すべき出来事として映るだろう。しかし、このような現象をめぐり、若者世代の保守化を懸念するとか、与党の市長候補が言ったように、彼らの歴史に対する経験値不足に原因を求めるのは、単純さを越えて典型的な他者化の論理と言える。そうした論理は、70~80年代当時民主化闘争に乗り出した若い世代に対し、朝鮮戦争と貧困を知らないからだと非難していた既成世代の論理と、何が違うだろうか。今の20・30世代(20~30代)にとっての80年代の民主化闘争の記憶というのは、50代の民主化闘争世代にとっての日帝強占期(日本の植民地時代)の独立運動の記憶ほど遠く、馴染みのないものだ。

 生涯の大半を新自由主義体制の支配のもとで生きてきた彼らにとって、現在の劣悪な生活に耐え抜き、一生懸命働けばいつかは明るい未来が待っているという産業化世代の期待や、独裁政権を追い出して民主化すれば不平等も貧困も抑圧と恐怖の記憶も消える解放の日が訪れるという民主化世代の期待のように、確実に保障されたものはない。産業化時代の物質的豊かさも、民主化時代の理念的栄誉も、彼らの“経験値”には存在する余地などなく、既成世代の“武勇伝”の中でこそ存在する古い歴史遺物にすぎない。資本移動の自由と雇用柔軟化の二つの軸を基礎に、世界的規模の高度労働搾取システムを構築した新自由主義体制のもとで、いかなる長期的かつ安定的な展望も持てないのが彼らの人生だ。彼らはラクダが針の穴を通るようなわずかな機会をつかんで“安定した未来”の獲得に成功するか、それともこれに失敗して一生プレカリアート的な不安な未来を転々とするかの二者択一の岐路に立たされている。

 昨年、あるオンライン討論授業である学生が言った「教授世代は闘争を選びましたが、私たちの世代は競争を選びました」という言葉が思い浮かぶ。闘争の代わりに競争というこの世代のこのような態度が、結局は現在の体制の論理に順応するという点で、保守的なことは明らかだが、それが他の様々な選択肢の一つではなく、ほぼ唯一の選択肢であるという点で、その保守性は涙ぐましい保守性である。そして、すべての若さには本質的に急進性が内蔵されており、これはどのような方法であれ、既成のレジームを転覆する抵抗的エネルギーとして爆発せざるを得ないという点で、その保守性は表面的かつ一時的なものに過ぎない。20・30世代がみな新自由主義的現実に完全に染まってしまい、新しい未来に向けたいかなる考えも諦めてしまったわけではないことは、すでに過去のろうそく革命の過程で我々も目撃した。ただし、私たちが本当に懸念すべきなのは、今最も切迫しているこの時代を経験している彼らの潜在的かつ急進的抵抗のエネルギーが、いかなる出口を見つけるかという点だ。

 今、20・30世代に既得権勢力として君臨している既成世代は、近代化論であれ民族主義であれ、階級革命論であれ、その後をついていけば繁栄と希望の新しい未来を約束してくれた確実なイデオロギー的座標と、それに伴う実践プログラムがあった近代企画の時代を生きてきた。しかし、今は資本主義そのものもその持続可能性を疑われているが、その代案のための模索もほとんどが迷走している混沌のポストモダン時代だ。さらに、この時が若者世代にとってより厳しいのは、いかなる代案的思想と運動であれ、権威主義と集団化を拒否するポストモダン特有の解体的で脱中心的な傾向のため、容易に有意義な規模と組織を持つ政治運動に集結できず、結局、個人の選択に任されたり、少数性と排他性を特徴とするアイデンティティ政治の領域に退化してしまうからだ。

 このように真摯な代案的思想と実践が揮発された跡地に入り込んでいるのが、現在全世界的に盛んに行われているポピュリズムである。新自由主義体制から脱するいかなる体系的展望も実践的プログラムも存在しない状況で、大衆が麻酔剤を求める心情で、直ちに現実打開の幻想を提供する政治家の輩に自分の未来を託すのがポピュリズムの本質だ。果たして韓国の20・30世代とその次世代が、先輩世代に対する不満と冷笑を越えて、このようなポピュリズムの狂信徒でも、新自由主義の自発的奴隷でもなく、歴史の主体になれるのか、またそのためのいかなる思想的、実践的準備をしているのか、果たして韓国社会にそのような余地があるのか、それが今回の再・補欠選挙が私に残した最も大きな質問だ。

//ハンギョレ新聞社
キム・ミョンインㅣ仁荷大学国語教育科教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/990219.html韓国語原文入力:2021-04-08 19:36
訳H.J

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