福島県郡山市の住民だった森松明希子さん(47)は「母子避難」移住者だ。2011年3月11日に発生した東日本大震災以降、福島で働く夫だけを残し、子どもたちを連れて大阪に移り住んだ。今年10歳になった娘の年齢がこの家族の避難期間と同じだ。震災当時3歳だった息子は中学生になった。
森松さんは最近、ハンギョレとの書面インタビューで、「自ら避難することを選んだ瞬間、『社会的マイノリティ』になった」と語った。「マイノリティになったことで、人権侵害に気づくようになり、声を出さなければなかったことになるかもしれないと思って」日本と国際社会に向かって原発被害者として発信し続けている。
大震災後、復興庁の集計によると、福島を離れた避難者は今年2月基準で4万1241人という。避難者とは大震災で住居を移したが、福島に戻る意思がある人を指す。社会的差別や偏見のため避難事実を隠し、政府が実態をきちんと把握できない事例も多く、実際の避難者数はさらに多いものとみられる。ハンギョレは森松家を通じて、東日本大震災後10年間の「原発災害」の被災者たちの苦しみと日本社会の姿を振り返ってみる。
「あの日」の午後2時46分、東北地方宮城県沖の深さ24キロでマグニチュード9.0の大地震が発生した。日本で地震観測が始まって以来最大規模だった。高さ10メートルを超える津波が押し寄せ、福島や宮城、岩手など太平洋沿岸の町を飲み込んでいった。福島第一原発も津波に襲われ、原子炉内核燃料棒が溶け出すメルトダウン(1~3号機)と爆発が起きた。放射性物質が大気や海に大量に流出した。1986年の旧ソ連のチェルノブイリ事故以来、最悪の原発事故だった。昨年12月時点で、死者1万5899人、行方不明者2527人、災害後に健康が悪化したり自殺した「災害関連死者」3767人を合わせると、犠牲者は2万2193人にのぼる大惨事だった。
当時、森松明希子さんは福島県郡山市のマンション8階で生後5カ月の娘と平凡な1日を過ごしていた。夫は出勤し、3歳の息子は幼稚園に通っていた。「揺れが始まり、地震だと直感しました。揺れが激しくなり、家具が倒れ、食器や電化製品がまるで飛んでいるように見えた」。命の危険を感じた森松さんは娘の頭を抱え、食卓の下に身を隠した。配水管が破裂したのか、リビングと部屋に水が流れ始めた。ためらう暇もなく、娘をおんぶして8階の階段を駆け下りた。4人家族の生活の場が廃墟となってしまった。
自宅近くに臨時で部屋を探して生活していた森松家は、事故から2カ月後、子どもたちの故郷である郡山市からの移住を決めた。「2人の子どもにとっては事実上の監禁生活でした。虐待かもしれないと思いましたが、放射能に露出させるわけには行けませんでした」。外遊びがしたいとせがむ息子を連れて、たまに車で2~3時間離れた公園に行くのが精いっぱいだった。
その頃、町では外から帰ってきた子供たちが鼻血を出したという話が聞こえた。水道水が汚染され、福島だけでなく、遠く離れた関東地方の茨城、千葉、東京でも母乳から放射性物質が出たというニュースが相次いだ。「ニュースを見た瞬間、鳥肌が立ちました。震災の後も汚染水を飲み続け、娘に授乳もしていたのに、何の情報もありませんでしたから」。森松さんは「子どもに申し訳なく、涙が止まらなかった」と話した。
郡山市は福島第第一原発から内陸へ60キロ離れている。政府の基準によると、必ずしも避難しなければならない地域ではない。事故当時、日本政府は原発から20キロ以内、放射線量の高い地域には40キロほどまで避難指示を出した。危険の兆しがいたるところに現れており、政府が順次避難を支援してくれると信じていたが、実際は違っていた。政府はむしろ「復興」「頑張ろう」というスローガンを強調した。「ますます避難を言い出せない空気になっていきました。もう我慢できないと思いました」。悩んだ末、会社勤めの夫を一人残し、3歳の息子と5カ月の娘を連れて大阪に引っ越した。夫が子どもたちに会いに来るには、交通の便の良い大都市がいいと思ったからだ。
夫は子どもたちと月に一度くらい会う。福島で仕事を終え、金曜日の夜に夜行バスに乗って土曜日の朝、大阪に到着する。子どもたちが5~6歳までは父親と離れるたびに泣いていた。子どもたちに、なぜ家族が離れて暮らさなければならないのかを十分に説明する必要があった。父親と一緒にいる時間は短いが、外で何の心配もなく走り回っている子どもたちを見ると、避難してよかったと思っている。
10年が経ったが、森松さんは「まだ福島には戻れない」と話す。「(放射能の被ばくを)恐れることなく、健康に生きたいと願うのは人間の基本的権利」なのに、「被ばくから子どもたちを守るためには、事故地点から離れるしかない」と、森松さんは語る。
最初は「原発避難者」という状況を人々に繰り返し説明するのが苦痛に思えた。政府が指定した避難指示区域外に住んでいた彼女は、「避難する必要もないのに、大げさに騒ぐのではないか」、「政府支援など他の目的があるのではないか」という視線を感じていた。口には出さないが、そういう空気はすぐに読み取れた。「私は放射能ノイローゼの人ではありません。政府は放射能汚染をよく見ず、一方的に“線引き”をしました」。森松さんはそのような状況から逃げなかった。避難してきた自分の家族ではなく、政府が過ちを犯したと堂々と話した。
日本政府は、「強制避難」といわゆる「自主避難」(避難指示区域ではないのに危険を感じて自発的に避難した人)にそれぞれ異なる支援をするなど差別した。お金が絡んだことで、避難者の間にも軋轢が生じた。自主避難者の中には、自分が福島から来たことを隠す人が増え、支援を受けられず、生活がさらに苦しくなる“悪循環”に陥る人も多くなった。「原発で事故が起きると空気や土地、山、海など放射性物質がいたるところに広がります。放射線被ばくは夥しく広範囲の被害です。責任を負わなければならない政府が線引きをしたことで、被害は縮小されました」
森松さんは「10年間、日本政府は全く変わっていない」と話す。「今も自分たちの過ちを隠し、『復興』と『福島への帰還』を強調している」というのだ。実際、日本政府は、平成26年4月の田村市都路地区を皮切りに、放射線量が高く人が住めない「帰還困難区域」を除き、多くの場合、避難指示区域を解除した。しかし、NHKの報道によると、今年1月時点で、避難を解除された11市町村に住民票を登録した住民のうち、実際の居住者は31.6%にとどまっている。70%ほどが帰還をためらっていることを意味する。日本政府は、避難解除地域の住民が帰還しなければ「強制避難」ではなく「自主避難」とみなし、支援を減らしたり廃止した。
森松さんは避難に止まらず、行動に出ることにした。2013年9月、彼女は別の避難者たちと共に関西地域の弁護士らの支援を受け、政府や東京電力を相手に損害賠償訴訟を起こした。彼らは当時記者会見で「福島原発事故の被害を受けたすべての人々は事故前の『普通の暮らし』を取り戻すため、国と東京電力の責任を明確にし、個人の尊厳を回復する」と宣言した。関西のみならず、現在、全国で約30件の損害賠償訴訟が行われている。東京電力の元経営陣に対する刑事処罰は、2019年に一審で無罪が言い渡され、現在二審が行われている。
森松さんは2014年9月に「サンクス・アンド・ドリーム」(Thanks & Dream、通称サンドリ)という東日本大震災避難者の会を立ち上げた。母子避難という言葉が流行るほど数が多く、同じ境遇の母親同士がたびたび会っていたのが集まりになった。災害から3年が経ち、避難者の間にも様々な変化が生じた。福島に戻ったり、福島を離れて避難を続けたり、離婚する夫婦もいた。「避難者の今を知らせたかっただけです。私達の声が集まって、必要な政策が作られればと思いました」。同会は今も運営されており、避難者のニーズと実態、困難を分かち合うプラットフォームとなった。
2018年8月、森松さんはスイスのジュネーブの国連人権委員会で英語で演説した。彼女は国際社会に対し、福島や東日本の人々、特に子どもたちを放射線被ばくから守ってほしいと訴えた。彼女は今も福島の被ばく問題を知らせることができるなら、どこにでも駆けつける。街角や学校、討論会で自分の経験を語り、マスコミのインタビューにも応じている。今年1月には著書『災害からの命の守り方-私が避難できたわけ』も出版した。機会があれば、原発問題で悩む韓国人とも話し合ってみたいと、彼女は語る。日本にはない韓国の「国家人権委員会」に対しても関心を持っている。平凡な主婦だった森松さんにとっては驚くべき変化だ。
「私は避難者の権利だけを主張しようとしているわけではありません。原発は世界のいたるところにあります。『放射線被ばくから自由』ということが世界に知れ渡り、基本的人権として確立してほしいですね。それでこそ、『放射能災害』から人々を守ることができると思います」。「原発避難者」の森松さんが、今日もたくましく避難生活に耐えている理由だ。