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[寄稿]リーダーシップ:政治家たちのアヘン

登録:2021-02-11 09:10 修正:2021-02-14 11:42

キム・ヨンソクㅣ哲学者

イラストレーション=ユ・アヨン//ハンギョレ新聞社

 1930年代後半、ドイツのヒトラーとイタリアのムッソリーニはそれぞれの国で強力な統治者だった。2人は同盟を結び、個人的にも“友情”を誇示した。1933年に政権に就いたヒトラーは、短期間で全体主義国家の基礎を築き、指導者としての地位を確固たるものにし、大戦争を引き起こす軍事力も備えた。

 ヒトラーはムッソリーニを招待し、自分が成し遂げたものを見せたかった。彼はベルリン広場に大勢の人々を動員し、ムッソリーニのための歓迎式典を開いた。歓迎の辞の末、ヒトラーは拳銃を抜いて叫んだ。「ドイツ国民よ、これから私がこの銃をあなたたちに投げる。これを受け取った者に、“偉大なる帝国と領導者”ために命を捧げる機会を与える」。銃が投げられると当時に、群衆は我先に銃を取ろうとして手を伸ばした。もみ合いの末、ついに一人が銃を手にした。彼は「ハイル、ヒトラー!」と叫び、自分の頭をぶち抜いた。

 ムッソリーニは驚愕した。帰国してからヒトラーの答礼訪問まで眠れない夜を過ごした1922年にヒトラーよりずっと前の政権の座に就いたにもかかわらず、自分は何も成し遂げていないという不安に苛まれていた。ヒトラーのイタリア訪問が迫る中、ムッソリーニは何か見せなければないと思っていた。

 ついにその日が訪れた。ローマの広場には大勢の人が集まっていたが、その中にはムッソリーニが信頼するファシスト青年党員もいた。みんな古代ローマ兵士の刀を象徴する短剣を身に着けていた。羽の着いた帽子をかぶっていたムッソリーニがその羽を抜いて叫んだ。「ローマ帝国の精気を受けた青年たちよ、私がこの羽をあなたたちに投げる。これを捕まえた者に祖国の栄光のために自分の短剣で命を捧げる機会を与える」

 羽がはらはらと舞い始めた。ある青年のところに舞い降りようとした瞬間、彼は鼻先まできた羽に息を吹きかけ、自分から遠ざけた。羽は隣の人に飛んでいった。彼もまた羽を吹き飛ばした。広場の人々は羽が近くに来るたびに、フーフーと息を吹きかけた。羽は人混みの中を舞い続け、今も空を漂っている。

 これはもちろん、誰かの作り話だ。これは当時、両国の全体主義化がそれぞれどのように進んだかを如実に表している。程度の差はあるものの、2人はそれぞれの国で「指導者または領導者」であり、自国の言葉でそう呼ばれた。ムッソリーニは「ドゥーチェ」(Duce)、ヒトラーは「フューラー」(Führer)と呼ばれ、公式の肩書としても使われた。いずれも英語の「リーダー」(leader)に当たる言葉だ。

 今日、リーダーという言葉は、私たちにとって日常的な外来語だ。「リーダーシップ」(leadership)という言葉も幅広く国際化している。その概念に対する著述も少なくない。しかし、人類の政治史でリーダーという言葉は長い間、すなわち19世紀以前まで特別な意味で使われず、特に概念化する必要もなかった。それまではほとんどの国の為政者は当然国の人々を“率いる”リーダー、すなわち王または君主だったからだ。

 現代民主主義の市民は一定水準以上の教育を受け、国家の主として為政者を選出する。誰かに率いられる必要はない。むしろ権力を委任された者を監視しなければならない。にもかかわらず、この2世紀の間、民主主義の全地球的な拡散と同時に国民を率いる指導者に対する欲求は続いている。矛盾と言わざるを得ない。

 このような矛盾の中で、国家の統治者たちの資質と能力を評価するために導入された概念がリーダーシップだ。過去には日陰の存在だったこの言葉が、新たな政治的状況でむしろ本格的な概念化作業を経て注目されるようになったのだ。

 これは人類の民主主義がまだ実験段階にあることを裏付けている。ヒトラーとムッソリーニは極端な事例かもしれないが、ナチズムとファシズムの“遺産”はまだ世界各地に潜在しており、いつまたどのような変異を起こして、復活するか、分からない。どんな変異を起こしても“リーダーシップへの誘惑”は依然として独裁または全体主義国家を生み出す主な動因になるだろう。

 かつて500年ほど前、マキアベリは市民の自由を保障する共和政でも、一部の人々はむしろ指導者に隷属されることを望む傾向があることを見抜いていた。指導者に隷属することを通じて、彼らは互いに結束する。そのため、彼らは集団行動を起こし、国家を転覆することもある。自分たちを率いるリーダーに従う際、人々が忘れていることがある。リーダーに従うことは、いかなる形であれ、自分の自由の一部または全部を担保にすることを意味する。それが善意によるものか、悪意によるものかは重要ではない。自由を担保にした個人は、“欠如”のため、それを補う行動に出る。特定の状況でそのような行動が極端に表れると、“集団的放縦”になる。

 私たちはつい最近、民主主義が最高に発達したという国でこれに関する生々しい事例を目撃した。ドナルド・トランプ前米国大統領は、2016年の大統領選挙に出馬するかなり前から、政治家たちに「強力なリーダーシップ」を求めてきた。大統領になってからはいわゆる「タフガイ・リーダーシップ」を誇示した。当然、強力なリーダーならではのスローガンである“偉大さ”を掲げた。MAGA(Make America Great Again)、すなわち「米国を再び偉大な国に」という掛け声は特別なものではなかったが、その反復的な平凡さゆえにむしろ多くの人々を惹きつけた。ここまでトランプ氏の行動は特に真新しいものではない。彼の国政遂行に対する評価は、深く広く功罪を問わなければならない。大統領選挙の敗者となった彼を一方的に非難することは軽率だ。

 ただし、彼のリーダーシップが犯した明らかな過ちは、今すぐ正さなければならない。彼は熱烈な支持者たちの自由を担保にしていたことに気づいていなかった。当然、指導者に隷属した彼らは結束し、意気投合した。すべての生命体がそうであるように、人間は自由なしでは生きていけない。いかなる形であれ、代理噴出が必要だ。トランプ氏の支持者たちは、国会議事堂を占拠する集団的放縦行為を犯した。トランプ氏は愚かにも彼らの行動を煽るような発言をしたにもかかわらず、態度を一変させ、卑屈にも支持者を非難するような釈明演説を行った。彼はリーダーシップが鋭い両刃の剣であることを忘れていた

 リーダーシップという言葉は、素敵で魅惑的で“政治家のアヘン”のようなものだ。現代政治においては、民衆を率いる指導者ではなく、多様な葛藤を調整して疎通する「調整者」の役割が重要だ。これを力説しても“既得権の言語”から抜け出せない限り、残念だが政治的認識の観点を変えることは難しいだろう。

//ハンギョレ新聞社
キム・ヨンソクㅣ哲学者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/982477.html韓国語原文入力:2021-02-100 2:40
訳H.J

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