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88年ソウル五輪の時、中国は北朝鮮経由で選手団を送ろうとした

登録:2019-03-31 23:19 修正:2019-04-01 07:27
88ソウル五輪で入場する中国選手団//ハンギョレ新聞社

 1988年のソウル五輪の南北分散開催は結局失敗に終わったが、議論の過程では、30年たった今なお南北が推進している道路・鉄道・航路の連結、自由往来の保障など、前向きな措置が協議されていたことが明らかになった。中国が当時、五輪選手団を鉄道で板門店を経由して送り出すことを北朝鮮と交渉していたことも、初めて確認された。外交部は31日、このような内容を含んだ30年以上経過した外交文書1602冊(約25万ページ)を公開した。

 1988年8月、パキスタン駐在の韓国大使代理が電報で伝えた外交文書によれば、中国大使館次席だったShao Jiong-chu参事官は、韓国側に重要な情報提供をしてきた。その内容は、中国が鉄道で北朝鮮と板門店を経由して自国の五輪選手団をソウルに送る計画だったということだった。Shao参事官は「(中国がこの問題で)北朝鮮側と交渉」したが「北側はこれを断固として拒否」したと伝えた。朝中間の具体的な議論日時や協議内容は確認されていないが、中国がソウル五輪への参加を公式通知した1988年1月中旬以後だったと推定される。中国の通知の2日前、北朝鮮は五輪不参加宣言をしたので、中国選手団の経由要請を拒否した可能性が高い。結局、中国はソウル五輪に300人近い選手団を航空便で参加させた。

 トウ小平中国中央軍事委員会主席(当時)が、その年の6月に北京駐在北朝鮮大使館を通じて金日成主席に個人メッセージを伝えたという点も目を引く。文書だったのか口頭だったのかは不明だが「北朝鮮も平和な五輪開催のための世界的努力に同調することを要請する内容」だったという。これは7月17日、米国務省関係官が駐米韓国大使館側に伝えた情報だ。

 北朝鮮は1981年9月に第24回夏季五輪の開催地にソウルが選ばれたことに反対し、1985年7月から南北共同開催を主張し始めた。1985~1987年に4回にかけて国際オリンピック委員会(IOC)の仲裁下で進行されたローザンヌ南北体育会談では、ソウル~平壌間の道路および鉄道の連結と南浦(ナムポ)港~仁川(インチョン)港の旅客航路開設が議論されもした。1986年6月、ローザンヌで進められた第3回会談では、南北双方が自由往来案を受諾し、北側が記者・選手役員・国際競技連盟など「五輪家族」2万5000人に国境を開放するという意向を示した。国境開放期間は五輪の2週間前から大会終了時までと決めもした。

 ただし、この議論を仲裁したフアン・アントニオ・サマランチ当時国際オリンピック委員会委員長は、北朝鮮が国境を開放することはないとの確信を持っていたが、ソ連など社会主義国家のソウル五輪参加を誘導するために南北会談に固執したことが確認された。

キム・ジウン、パク・ミンヒ、ノ・ジウォン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/diplomacy/888112.html韓国語原文入力:2019-03-31 21:22
訳J.S

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