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警察の銃弾と武装隊の竹槍で壊れた体…「なぜ私は4・3後遺障害者でないのか?」

登録:2019-01-17 23:35 修正:2019-01-19 09:20
済州市朝天邑北村里に立つ榎の老木。海風に曲がった榎は、4・3の悲劇を知っているだろうか=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 済州(チェジュ)4・3事件の真相究明および犠牲者の名誉回復に関する特別法は、済州4・3当時の「後遺障害が残った人」を犠牲者に含めている。彼らは、済州4・3を経験した済州島民のうち、討伐隊や武装隊により負傷して後遺症を抱えて生きている「4・3後遺障害者」たちだ。しかし、彼らの中には、後遺障害者申請をしても明確な理由なく脱落した人々がおり、後遺障害者の受付事実すら知らずに申請もしなかった人々もいる。

警察により銃傷を負った北村里のチャン・ユンスさん

 蒸し暑い夏の日だった。1947年8月13日午前11時頃、朝天面(チョチョンミョン、現在の朝天邑)咸徳里(ハムトクリ)犀牛峰(ソウボン)の粟畑で草取りをしていたチャン・ユンスさん(90・当時18)は、貝を獲りに行こうと足を速めた。家で昼食をとり、びく(魚籠)と手鍬を持って北村里(プクチョンリ)の海辺に行くつもりだった。チャンさんが家の前まで来た時だ。隣人たちが走る姿を見て、チャンさんも鍬を持ったまま隣人たちの後を追った。そして銃声が鳴り、チャンさんはその場に倒れた。

 「私は一人で畑に行き、潮時になったので漁に行こうと帰ってきたところでした。家でお昼を食べて海に行こうと。すると人々が目の前を走って行き、私に仕事ばかりしていないでこういうものも見なければならないと。それで畑から戻ってきたままでそちらに走りました。私はちょっと足が速いほうです。ノブンスンイに行って(銃で)撃たれる時までは覚えていますが、その後は分かりません」

チャン・ユンスさんが済州4・3が本格化する以前の1947年8月に銃で撃たれ負傷した状況を説明している=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 当時、北村国民学校の5年生だった弟のチャン・ユンスンさん(87・当時15)は、この日の状況について「8・15光復節を控えて青年たちが夜中にうちの石垣にビラを貼り付けて行ったことがあった。近隣の咸徳支署の警官が来て、村の青年たちを見れば「誰が貼ったのか」と問い詰める過程で、青年たちと警察の間で小競り合いが起きた。村の雑用をする人がサイレンを吹き、「警察が来て北村の人々を殴打している。はやく出て来い」と言ったが、その時姉が走って行って銃で撃たれた。父の友人と女性など3人が銃で撃たれた」と話した。“ビラ”とは何の関係もないチャンさんが銃に撃たれたのだ。当時の新聞にも、この日の銃傷の事実が報道された。

4・3後遺障害者と認められず

 警察が撃った弾丸は、チャンさんの右鎖骨の下を貫いた。胸は血だらけで、隣人たちは皆、助からないと言った。娘の銃傷の知らせを聞いた父親(チャン・キリョン、当時55)と弟、そして銃に撃たれたチャンさんの3人は、通りかかったトラックに乗り、済州邑の道立医院に向かった。父親は娘の銃傷に興奮し、咸徳支署に車を駐めさせ「私の娘が銃に撃たれて死にそうだ。娘を生きさせろ」と言って器物を壊し、支署のわらぶきの家のロープを切ってしまった。警察は謝罪や補償どころか、器物を破損したという理由で父親を裁判に付した。父は同年9月26日に裁判を受け、騒擾罪等で懲役6カ月執行猶予3年の判決を受けた。

チャン・ユンスさんが銃に撃たれ負傷した内容を報道した1947年8月の済州新報(左)と中央新聞の記事//ハンギョレ新聞社

 医師は父親に「左側に銃が当たっていたら死んだが、右側だったので助かった」と話した。銃で負傷した住民2人は、チャンさんより早く退院したが、生死の境をさまよったチャンさんは、3カ月も病院生活をしなければならなかった。チャンさんは退院後にも、しばらくは横になって過ごした。チャンさんは「若い時は水に入っても傷が癒えていたので痛まなかったけれど、後になって後遺症が出始めた」と話した。チャンさんが指で傷を示して、鎖骨の下を押すとボコッと指がめり込んだ。

 チャンさんは「寒くなると右腕に力が入らず使えなくなる。銃で撃たれた部位は、水に入ると凍ってしまう。寒かったり風の吹く日には、数日間は動くこともできず寒気がする」と話した。

 チャンさんは銃に撃たれて負傷した傷と住民の証言があるにもかかわらず、2004年と2014年の2度にわたり済州4・3後遺障害者として認定されなかった。チャンさんは「なぜ後遺障害者として認められないのか理解できない」と話した。

チャン・ユンスさんが銃に撃たれ負傷してできた傷を見せている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 「銃弾が貫通したことを皆が見ているにもかかわらず、病院では傷がないと言う。そんなことがどこにある?銃で撃たれたことを知っていながら傷がないとは。歳をとって後遺症がますます激しくなっているようだ」

 チャンさんは昨年末、済州道に再び4・3後遺障害者認定申請をして、済州4・3実務委員会の審議を通過した。弟のチャン・ユンスンさんは「最初に後遺障害者申告をしたのに、認められなかった。実際に銃で撃たれ生涯苦痛を抱えている姉さんが認められないなんて、話にならない」と話した。

「お父さん」と呼びたかった…武装隊にやられた高内里のキム・ジョンアさん

 「生まれてから『父さん』『母さん』と一度も呼んだことがなく、その言葉が出ませんでした。友達が『父さん』『母さん』と呼んでいるのが、どれほどうらやましかったか分かりません」。13日、受話器の向こう側から聞こえるキム・ジョンアさん(74・東京荒川区日暮里)の声は哀しげだった。北済州郡涯月面(エウォルミョン)(現、済州市涯月邑)高内里(コネリ)が故郷のキムさんが、日本に渡ったのは40年余り前の事だ。日暮里は、済州島で虐殺が強行された1949年5月29日、高内里青年団の主催で4・3追悼会が開かれたところだ。

キム・ジョンアさんが昨年10月、済州4・3平和公園を訪れ、4・3の経験を話している=チョ・ジョンヒ済州4・3平和財団研究員提供//ハンギョレ新聞社

 キムさんは、その日の状況を祖母(カン・シンヘン)から聞いて育った。1948年11月13日の夜、父親(キム・ボンウォン・当時24)は村の公会堂で“その人々”に対する対策会議をしながら「その人々の話を聞いてはいけない」と話した。キムさんは「暴徒」という表現の代わりに「その人々」と言った。「会議が終わって家で寝ていると、会議を覗き見た“その人々”が、翌日午前2時頃に家に入ってきて、父と母、赤ん坊だった私まで彼らが振り回す刃物や竹槍で刺されました」。

 済州4・3当時、多くの済州島民が国家公権力の犠牲になったが、武装隊に殺害された民間人もいた。武装隊は、自分たちに協力しなかったり討伐隊側だと判断した住民を殺害する過程で残忍性を見せもした。

両親の死の中で、赤ん坊は満身瘡痍で生き残った

 「父さんはその場で亡くなり、母さん(オ・チャンスン・当時23)は幼い子どもを一人残して目を閉じられなかったのか、全身傷だらけで苦痛の中で10日ほどい持ちこたえ、ついに息をひきとりました。私が死んで、母さんが助かると思われていたのに、その反対になりました」。武装隊は2歳になったばかりのキムさんにも竹槍を振り回し、腕、胸、耳に重傷を負った。

1948年7月、卒業式を開いた涯月公立初級中学校(現、涯月中学校)の第1回卒業生と教師たち。キムさんの父親(前列左から3人目)は、卒業式の4カ月後に犠牲になった=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 日帝強制占領期間に東京で大学を卒業したインテリだった父親は、解放以後に涯月中学院の設立に加わり、亡くなるまで数学を教えた。キムさんは「父さんが学校設立後に周囲から日本に行くように言われたが、子どもたちを教えると言って故郷に残った」と話した。

 「祖母は息子の墓に行って泣く日が多くありました。しょっちゅう息子の墓に行っていました。息子の墓前で、話もできずにひたすら号泣していた祖母の姿が忘れられません」。

 30年前に亡くなった祖母は、キムさんの入学式、卒業式、運動会には顔を出さなかった。孫娘にはかわいそうだと思ったが、無念に亡くなった息子の顔が目に浮かんで行けなかったと話していた。祖母は、残された子どもだけでも生かそうと言って、叔父と叔母を密航船に乗せて日本に送った。

耳から粘液が出て、全身傷だらけ

 キムさんの記憶の中には4・3はないが、からだには4・3が70年余り経ってもそっくり残っている。赤ん坊の時、生死の峠を越えたとはいえ、傷は現在進行形だ。「祖母は息子の唯一の血筋の私を生かすため、誠心誠意治療しました。時間の経過とともに胸、肩、腕の傷は癒えていきましたが、耳は良くなりませんでした」。

 キムさんのからだの随所には当時の傷が残っている。キムさんは「夏に半袖の服を着れば、人々が腕を見て『どうしたの』と訊いてくる。幼い時に負傷してずいぶん良くなり、整形手術もしたけれど、相変らず傷跡がある」と話した。

 しかし、キムさんの右耳は聞こえない。幼い時から耳からは粘液が出てきた。キムさんは「自分も気がつかないうちに耳から粘液が流れ出て、周りに人がいれば恥ずかしくて、ハンカチで隠して通ったりもした」と話した。キムさんは結婚してソウルの大病院で手術を受けた。医師が聴力の回復は難しいだろうと言ったが、切実な思いで手術を受けた。日本に渡った後に訪ねた東京大学病院で、キムさんは治療を受けても直らないと言われた。

キム・ジョンアさんが昨年10月、両親の墓を訪れ、参拝し涙を流している=チョ・ジョンヒ済州4・3平和財団研究員提供//ハンギョレ新聞社

 キムさんは、昨年10月済州を訪問した。済州4・3平和公園が作られ、4・3犠牲者・遺族の申告を受け付けているという知らせを聞いた。キムさんは、済州4・3平和財団の助けで4・3後遺障害者申請書を提出した。

 「娘たちにも悲惨な話を聞かせたくなくて話しませんでしたが、初めて4・3の傷を語りました。4・3は今でも胸の痛む苦痛なのです」。キムさんの声は涙にぬれていた。

後遺障害者の決定は…4・3中央委、開催未定

 済州4・3後遺障害者に決定されれば、地方費で生活補助費(月70万ウォン=約7万円)と医療費などの支援を受けられる。しかし、4・3後遺障害者認定の過程は難しい。後遺障害者生存者は現在75人に過ぎない。最後に後遺障害者決定がなされた2014年5月には33人が申し込み7人だけが認められ、残りの26人は不認定だった。後遺障害者として認められるためには、事実立証確認書と診断書を添付して申請し、済州4・3実務委員会と首相室傘下の済州4・3中央委員会の審査を通過しなければならない。昨年末、済州4・3実務委員会の審査を通過した後遺障害者申請者は34人だ。現在、首相が委員長を務める済州4・3中央委員会がいつ開かれるのか決まっていない。

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/878713.html韓国語原文入力:2019-01-17 10:39
訳J.S

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