「(30年経ったが)写真で撮ったように当時の状況が目に浮かびます。あのような死亡患者は初めてだったから」
9日、ソウル銅雀区(トンジャクグ)黒石洞(フクソクドン)の「オ・ヨンサン内科医院」診療室で会ったオ・ヨンサン院長(60)は、1987年、警察の水拷問で死亡した朴鍾哲(パク・ジョンチョル)氏の遺体を一番最初に目撃した人だ。現場で水拷問を直感した彼が記者団に伝えた“真実”は、歴史の流れを変える起爆剤となった。最近、累積観客数400万人を超えた映画『1987』でオ院長は、まだ30歳になったばかりの若い医師として登場する。
オ院長の記憶は1987年1月14日午前11時ごろに遡る。彼が働いていた中央大学龍山病院応急室に刑事らが押し寄せた。車で5分の距離にある南営洞(ナミョンドン)対共分室で取調べを受けていた大学生1人が死にそうなので、緊急往診に行かなければならないというものだった。「学生が酒をたくさん飲んだのか、喉が渇いたと言い水をくれと言ってやかんから飲み、呼吸に問題が生じたようだと言いました。刑事たちも慌てた様子がありありと見えました」
刑事たちの案内で対共分室9号室のドアを開けたとたん、オ院長の目に入ったのは、反対側の白い浴槽と床に流れている水だった。右の低い台に下着だけ着たまま横たわっている朴鍾哲は、頭からつま先まで濡れていた。その瞬間、刑事らの説明が事実でないと直感した。オ院長は、すでに死亡した朴鍾哲を相手に30分間心肺蘇生術を行い、その後、刑事らは死亡した朴鍾哲を警察病院に移送した。その日の午後4時に刑事1人が再びオ院長を訪ねた。
「死亡診断書を書いてくれと言うので、尋ねたんです。『死亡の原因を書かなければならないが、私はとうてい分からない。直接死因、中間死因を全部未詳と書くが、それでもいいか」と。死因が未詳なら変死として処理される。検事に解剖を求めるということだ。診断書を書いてからしばらくして、オ院長は自分の診療室の隣のトイレで彼を訪ねてきた記者と会った。彼が書いた「死因未詳」が記者の目にとまったのだ。記者は診療室の前を“監視していた”刑事の目を避けてトイレに隠れていた。
「1分足らずの短い時間でした。南営洞に行ったのか。そうだ。学生が死亡したのは事実か。そうだ。そのように事実確認だけして急いで帰ったんです」。翌日、中央日報に「警察で取調べを受けた大学生ショック死」というタイトルの短い記事が掲載される。映画『1987』は、中央日報の最初の報道後に後続取材をしていた東亜日報の記者とオ院長が会ったと設定を変えたが、オ院長の記憶は違った。オ院長はその日、なかなか眠れなかった。
その翌日午前、30人あまりの記者が彼を訪ねてきた。オ院長を監視していた刑事の制止も無駄だった。「水拷問」という言葉だけは使わなかったが、オ院長は自分が知っている「水」に関するすべての情報を積極的に伝えた。「浴槽があり、朴鍾哲君も水に入って出てきたように濡れていた。腹の中に水がたくさん入ったのか、触診してみたらだぶついていた。床も水びたしで、着ていた白衣が泥水で濡れて洗わなければならないほどだった」と話した。
「可能なところまですべて言おうと思いました。水拷問で死亡した、とこんな風に直接話すことはできないから、何でも水に関する話をしたんです。例えば『挿管して聞いてみたところ水泡音(肺胞内の鬱血から出る音)が聞こえた』というような話もしましたが、実際それは水拷問と関係のない医学用語だったんです。ただ、専門家でない人が聞けば水と関連していると考えたと思います」
ついに「拷問致死記事」が出た後、オ院長は24時間検察の取調べを受け、再び新吉洞(シンギルドン)の対共分室に連れて行かれ、16時間取調べを受けなければならなかった。その事件が終わった後、オ院長はあるマスコミとのインタビューで「誰もがそれぞれの経験から気づいた倫理を持って生きなければならない」と話した。
「誤った状況を正さなければならないという思いもあり、職業倫理も作用したが、何より23歳の学生がどんな悪いことをしたからといってこんなに拷問して殺したのかと思いました。そこに腹が立ちました」
オ院長の病院の一方の壁には「1987年、韓国キリスト教教会協議会(KNCC)が与える第1回人権賞受賞」という彼の経歴が短く書かれていた。チェ・ギュジン健康と代案研究委員(仁荷大学医学部教授)は「1987年当時の歴史の扉を開く最も決定的なきっかけが、まさにオ・ヨンサン氏の信念に満ちた証言だった。その証言の重さが少なからずあったと思う」と話した。