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‘風納土城, BC 2世紀 築造’炭素年代測定も無視

登録:2009-07-01 16:57

原文入力:2009-07-01午後02:05:25
←イ・ドギル 主流歴史学界を撃つ
<8>植民史観 顔負けの韓日歴史共同研究委
科学調査にもかかわらず“AD 3世紀 築造”ごり押し主張
三国建国時期 数十~数百年 後退させ
初期記録 虚偽 確認された‘日本書紀’引用など
西川王・近肖古王・訥祗王からのみ実存認定

←百済の王城だったソウル,風納土城。炭素年代測定の結果、紀元前2世紀頃から築造され始めたものと発表されたが、‘韓日歴史共同研究委員会’の韓国側学者たちは西暦3世紀後半に築造されたと主張した。

‘韓日歴史共同研究委員会’(以下 委員会)という組織がある。日本の歴史教科書が問題になるや、韓国・日本首脳の合意で2002年に発足し2005年まで活動した組織だ。もちろん国民が出した税金で運営された。委員会は2005年<韓日歴史共同研究報告書>(以下 報告書)を発刊した。委員会はこの<報告書>を‘将来、両国の歴史教科書編修に参考にできるようにする予定’と明らかにした。国史教科書が<報告書>の内容を参考にして改正しなければならないという意味だ。

<報告書>のいくつかの内容については、韓国の学者たちが果たしてこういう文を書いたのか、いぶかしく思える部分が少なくない。<報告書>第1冊の‘高句麗の情勢’部分を見よう。高句麗の建国時期に対して「高句麗は3世紀後半、西川王の時になって各地域に温存していた固有名部を一掃することにより連邦制的な初期古代国家を抜け出し、王と中央貴族による中央集権的統治体制を完備した」(58ページ)と第13代西川王(270~292)の時に事実上建国されたと記述した。従来の定説だった太祖大王(53~146)の時よりも更に150年以上後退したのだ。津田左右吉が見たとすれば「私はなぜこれほどまで主張できなかったのだろうか?」と嘆き、直接は教えられなかったが、さすが自分の愛弟子だと感心しただろう文だ。百済に行けば、一段更に上がる。<報告書>の‘百済の情勢’編を見よう。

「<三国史記>百済本紀によれば古爾王27年(260)條に六佐平および16官等制などの中央集権的官僚制を完備したとありますが、これは後世百済人らの古爾王重視観念によって操作されたものだ。この時期の百済の発展程度はもう少し低くしてみなければならないだろう。」(59ページ)

←嶺南地方で出土した鉄製農機具。1~3世紀頃のものと推定されている。鉄製農機具の使用は農業生産力を飛躍的に発展させ古代国家成立の主要根拠として使われる。

“将来、両国教科書に参考”主張

イ・ビョンドは<三国史記>古爾王27年(260)條の六佐平および16官等制などの中央集権的官僚制を完備したという記録を古代国家成立の根拠とした。先週、明らかにした通りこれも日帝が創案した‘三国史記初期記録不信論’の亜流であり何の学問的根拠もない。ところが<報告書>は<三国史記>古爾王27年條のこの記事自体が‘操作されたもの’と主張しているのだ。<報告書>はまた「3世紀後半に百済の王城であるソウル,松坡区の夢村土城と風納土城が築造された」と叙述した。国立文化財研究所は2000年に風納土城から出土した遺物13点に対して炭素年代測定を行い、その中心年代が早いものは紀元前199年、遅いものは西暦231年だと発表した。風納土城がすでに紀元前2世紀から築造され始めたことを物語るものだ。2000年にすでにこういう調査結果が発表されたにもかかわらず、2005年に国民の税金で発刊された<報告書>は‘3世紀後半に築造された’とごり押し主張をしているのだ。

←昌原,茶戸里で出土した剣と鞘。漢江と洛東江流域では紀元前1世紀を前後して鉄製武器類が多数出土し、これら地域に強力な古代政治体が存在したことを物語っている。

<報告書>は百済は「346年に近肖古王が王位に上がり、爆発的な成長をし始め」とし「枕流王元年および2年(385)に百済王室が仏教を公認したということと見て、それを前後した時期に古代国家体制が完備したと見られる」(60ページ)と叙述した。百済が近肖古王(346~375)の時に建国されたという主張で、イ・ビョンドの古爾王27年(260)説よりも100年ほどさらに後退したのだ。現在主流史学がイ・ビョンドよりも後退した背景を探そうとすれば、やはり津田左右吉に注目しなければならない。彼が1921年に書いた‘百済関日本書紀記載’は現在は津田左右吉全集第2巻に‘百済の王室の系譜及王び王位の継承に関する日本書紀の記載’という題名で載っている。彼は<日本書紀>に近肖古王が肖古王,近仇首王が貴須王として出てくるので、これらからは認められると語った。<三国史記>に登場する百済国王らは<日本書紀>に登場して初めて実存人物になるということだ。津田は「<三国史記>に見える契王以前の百済に関する記事は皆事実とは信じ難いもので、それは後世の史家らによって作られた(構造)こと」と結論付けた。12代契王(344~346)以前の<三国史記>が操作だという主張なので13代近肖古王からが実在人物となる。津田の他の文もそうだが、これも何の根拠も挙げられなかった。しかし津田のこういう主張を2005年の<報告書>がそのまま復活させたことは、韓国主流植民史学界の真の教祖はイ・ビョンドではなく津田左右吉だという自己告白に他ならない。<報告書>はまた高句麗と百済の戦争原因が平安道と黄海道にいた中国亡命者らを占めるためのものだったとして、「百済が奪おうとしたものも、高句麗が阻もうとしたものも、まさに彼らの先進文化と技術人材だった」と主張した。漢四郡在韓半島説の土台の上に未開な高句麗,百済両国が優秀な中国文化を奪うために戦争したというあきれる内容だ。それと共に高句麗はこの地域を‘無理に直接統治するより’冬寿のように「中国亡命者を代表者として立て、彼らの幕府組織を通じて間接統治した」と主張した。平安・黄海道地域が中国亡命者らが治める幕府の自治地域であったという珍しい論理だ。もちろんこの時代に幕府が存在したというただ一つの史料的根拠もない。<報告書>の見解のとおり平安・黄海地域の中国人らを占めるためならば百済の先攻で戦争が始まらなければならない。しかし大部分の戦争は高句麗の先攻で始まっている。高句麗はなぜ中国人亡命者らを他の地域に移す安い方法の代わりに彼らを守るために百済を数えきれない程先に攻撃する高い戦争をしたのかという疑問も持たなかったようだ。その上<報告書>は「その当時、古代国家百済の南側境域に対して考えてみることのできる記事は<日本書紀>神功49年條の記事しかない」と主張した。津田左右吉と同様<日本書紀>だけが韓国史解釈の唯一の定規だという意味だ。しかし<日本書紀>初期記録が虚偽という事実は他でもない津田左右吉も主張したのだ。<日本書紀>は60年単位で区切る‘周甲制’を動員して解釈しなければならない。<日本書紀>神功皇后摂政55年(西暦255)條に「百済の肖古王が薨した」と記録されているが<三国史記>は近肖古王が375年に死亡したと記録してあり、2甲子120年の違いが生じる。<日本書紀>の貴須王死亡年代(264)も<三国史記>の近仇首王10年(384年)條より120年の違いが生じる。<日本書紀>は周甲制を適用して<三国史記>と比較して、その正確な年代を鑑別しなければならない本だ。しかし<報告書>はむしろ<日本書紀>だけを唯一の定規と言い張っているのだ。最後に<報告書>は新羅をどのように記録しているのか調べよう。

「結局、新羅は4世紀後半、奈勿尼師今の時に高句麗の支援を受け初期古代国家を建てる端緒を捉えたが、高句麗の干渉で成し遂げられず5世紀前半の訥祗麻立干の時になり単位政治体である6部を王権に従属的に連合し初期古代国家を形成した。」(韓日歴史共同研究報告書64ページ)

イ・ビョンドが17代奈勿王(356~402)の時、新羅が事実上建国されたと叙述したことを否認し19代訥祗王(417~458)の時に建国されたと主張しているのだ。これまたイ・ビョンドの主張より50年余り後退したものだ。<報告書>はなぜあえて訥祗王を新羅の建国始祖だと固執しているのだろうか? やはり津田左右吉の‘三国史記の新羅本紀について’に答が出ている。

“<三国史記>‘新羅本紀’の…実聖尼師今(402~417)の時にも明白に虚構としか見られない記事があるので、それ以前の奈勿尼師今の時、すなわちわが軍(日本軍)が初めて新羅を圧迫したと推測される時代の記事も他の確実な史料の記録に照応することでない限りは信用できない。」

‘鉄製武器=古代国家’通説も知らぬフリ

<三国史記> 18代実聖王の時の記事にも虚構と見える内容があるから19代訥祗王の時以降こそ事実と見られるという津田の主張は‘5世紀初期,訥祗麻立干の時に新羅が初期古代国家になった’という<報告書>の記述と正確に一致する。考古学では階級分化が成り立ち鉄製武器が登場すれば古代国家が成立したと見るのが一般的だ。階級分化の跡があり鉄製遺物が出土した慶州 朝陽洞遺跡は紀元前1世紀~西暦1世紀前後の遺跡と解釈される。この時すでに国家段階に入り込んだと解釈することができるという意味だ。それでも<報告書>は西暦5世紀頃に新羅が建国されたと言い張っているのだ。

東北アジア歴史財団のホームページが漢四郡が韓半島内にあったと堂々と主張していることや、<報告書>が津田左右吉の主張をそのまま生き返らせていることも朝鮮史編集会の植民史観が大韓民国主流史学界にそのまま継承されていることを物語るものだ。問題はこういう機関らが税金で維持されるという事実だ。教育部はいつまで自国史に対するテロ行為を国民の血税で支援するのだろうか。あたかも‘これでも税金出す?’と国民の忍耐心を試すかのように。

ハンガラム歴史文化研究所長

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/215/363345.html 訳J.S