金正恩朝鮮労働党第1秘書は、色々な面で父親の金正日国防委員長よりは、祖父である金日成主席に似ている。 ぐっと刈り上げたヘアースタイルに長いコートを着て、後ろ手に組んだ自信満々な表情で‘現地指導’を行う姿はまちがいなく金主席だ。
金第1秘書は最近、叔母の夫であるチャン・ソンテク前党行政部長を速かに処刑し‘恐怖政治’を敷いているという評価を受けている。 しかし執権序盤には開放的で身近な西側型指導者のイメージを浮き彫りにしようと努力していた。 昨年1月、軍部隊を訪問して軍人の手を握り歩く姿からも、洗練されたスタイルの夫人 李雪主(リ・ソルチュ)氏を公開するなど、新しい指導者の雰囲気をリリースした。 昨年4月事実上の就任時は公開演説を行い、今年1月には新年辞を直接発表しもした。 このような開放的な態度は西側から‘隠遁の独裁者’と呼ばれた父親の金国防委員長には見られない姿だった。
金第1秘書は、政策決定過程でも党の公式機構を活用した。 党秘書や専門部署の部長が上げる文書に署名する方式で指示を伝達した金国防委員長とは異なる姿だ。 今回のチャン前部長やリ・ヨンホ前総参謀長の解任決定も、党政治局会議を通じてなされた。 もちろんこのような手続きがどれほど実際の内容と符合するかは別の問題だ。 経済・核武力 並進路線を前面に出したこともやはり‘先軍政治’という標語どおり軍を前面に出した父親とは違う。
このような差異は二人の成長過程と最高指導者になる過程から始まったと見られる。 1942年生まれの金国防委員長はロシアで生まれ北韓で教育を受けて育った。 22才の時から政治活動を始め、52才の1994年に最高指導者になった。 30年ほど父親の下で着実に後継者教育を受けたのだ。 しかし執権直後に洪水と日照りなどの自然災害が重なり食料事情が深刻化して、北韓はいわゆる‘苦難の行軍’を体験した。
反面、金第1秘書は、スイス ベルン近郊で10年近く留学生活を行い、西欧式教育を受けた。 彼が西側型スタイルを持つようになった経験的契機だ。 引き続き彼は後継者として内定し(2008年8月)3年余り後の2011年12月、金国防委員長の突然の死亡と共に最高指導者の席に上がった。 後継教育を受けた期間が父親とは比較できないほど短い。 これは彼の権力基盤がそれだけ脆弱で、彼が父親より執権初期に権力基盤強化にさらに没頭しなければならないことを意味する。
実際、金第1秘書は最高指導者になった後、権力の座の強化を急いだ。 金国防委員長の死後4ケ月で最高司令官、党第1秘書、国防委員会第1副委員長など最高職責を相次いで受け持ったが、これは父親である金国防委員長が主な職責を占めるのに4年かかったのに比べ、非常に短い期間だ。 統一部の分析によれば、金正恩体制ができた後、党・政・軍の主要人物218人中ほとんど半分に及ぶ97人(44%)が交替させられた。 最近起きている激烈な粛清作業もその一環と見える。
ヤン・ムジン北韓大学院大学校教授は「執権序盤に開放的で包容的な姿を見せた金正恩が、現在は政治の部分ではあるが無慈悲な姿を見せている。 金正恩の権力が強固になるまで、このような姿を見せ続けるだろう」と予想した。
チェ・ヒョンジュン記者 haojune@hani.co.kr