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"NLL論議、暴力的な大衆煽動…" "似非知識人 確実に記録する"

登録:2013-08-06 21:45 修正:2013-08-07 01:04
定年退任を控えたアン・ビョンウク カトリック大教授は先月<ハンギョレ>とのインタビューで「知識人の知的浅薄性と曲筆阿世が私たちの社会を落伍の危機に追い込んでいる」と警告した。 キム・テヒョン記者 xogud555@hani.co.kr

 アン・ビョンウク(65)カトリック大教授(韓国近現代史)が今月末で定年退任する。 権威主義的軍事政権時代を終わらせた‘87年体制’の一軸を形成した現実参加型進歩的学者の一典型とも言われるアン教授。 先月末、富川(プチョン)キャンパスの教授研究室で彼は全南(チョンナム)和順(ファスン)で生まれ、光州(クァンジュ)一高、ソウル大国史学科を卒業して初めて大学の教壇に立った1981年以後、30年余りの歳月を慎重に振り返って自負心と同時に物足りなさも吐露した。 そして依然として愚昧な現実とそれを支えている勢力に対する揺るぎない警戒と冷笑、時には不快と怒りを表わした。 3日の電話通話では国家情報院大統領選挙介入と西海(ソヘ)北方境界線(NLL)論議に対して言及し「この時代に必ず記録して後世に残さなければならないことがあるとすれば、その筆頭が似非知識人の饒舌と曲筆、惑世誣民(世を惑わし民を蔑む)」だと語った。 それと共にその作業と彼らに対する歴史的評価を退任以後の役目とするという意を婉曲ながらも明らかにした。 「偏見と歪曲だらけの窒息しそうな今の現実を次世代に譲ってはならない」とも語った。

 疑問死真相究明委員会などに参加しながら‘過去事真相調査専門家’というニックネームまで得た彼は、2000年に創党された民主労働党の綱領制定委員長として創党前1年間の水面下作業を総指揮した。 アン教授の退任は相前後する数ヶ月の時差でソ・ジュンソク、ユ・ホンジュン教授など1948年生まれの同窓同期たちの退任と共に、ある意味で暮れ行く一時代のまた別の風景でありうる。 だが、依然として為すべき仕事が多い彼らは永遠の現役とならざるをえない。

インタビュー/ハン・スンドン記者 sdhan@hani.co.kr

 アン教授の研究室には本棚が何列も立ち並んでいた。 本の話を持ち出すや、彼はその中から一冊を抜き出した。 <中朝、中ソ、中蒙関連条約、協定、議定書彙篇>というタイトルの下に‘機密文書、注意保存’という文字が刻まれていた。 吉林省革命委員会外事弁公室が1974年6月に編纂した本だが、数ページめくると‘中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国友好合作互助条約’という題名が現われ、第7条に1961年金日成と周恩来が全権代表として署名し翌年9月10日それぞれ批准、発効されたという事実が記されていた。

"せっかく本の話が出たので、この本の話からしよう。 中国延辺の古書店で買った本だ。 北と中国が白頭山(ペクトゥサン)と天池の境界をどのように画定したかを示す公文書だ。 ところで国内では私がこの本を入手するまで、その条約集を見た人は誰もいなかった。1970年代に国内言論は北韓が白頭山(ペクトゥサン)一帯の私たちの領土を6.25戦争(訳注:朝鮮戦争)参戦の代価として中国に譲り渡したと大々的に報道したことがある。 だが、当時は誰もその真偽を確認できなかった。 今でもそのように思っている方々が意外に多い。 この本を通じて北韓-中国の国境線が粛宗時期の白頭山(ペクトゥサン)定界碑地域を上方に引き上げて画定され、天池の半分以上を私たちの領土として確保していた事実を確認できた。 条約文の地名表記も中国式の長白山ではなく白頭山,天池などと明記した。 保守新聞の報道とは大きく違っていた。 中国は周辺国家との国境問題で一歩も退かなかった。 しかし北韓には例外的に大幅に譲歩したものと見られる。」

-どのように入手したか。

"2000年9月、日刊紙が主管した鴨緑江(アムノッカン)~豆満江(トゥマンガン)国境踏査をした。 その時、北韓-中国国境条約資料を探してみたが何もなく関連研究もなくて驚いた。 その時はそれが非公開文書だという事実を知らなかった。 ところが踏査の後に行ってみた延辺の古本屋にまさにこの本があった。 身震いした。 私には奇跡のようなことだった。 15中国元と言われたが10中国元(当時1500ウォン程度)に値切って、すばやく払って逃げるようにして出てきた。 その後、政府機関、研究者、図書館などにコピーして分けて上げた。 さらには北京大学の関係者も私から複写本を受け取った。

-講義はいつ終わったか。 告別講演は?

"6月中旬に終講した。 韓国現代史、北韓史、韓国史の理論と方法、大学院の講義などを担当した。 一学期に3科目ずつ一年で計6科目を講義した。 告別講演のようなものはやらなかった。 教授になりたての頃、定年・還暦記念論叢のようなものを作ることを封建遺習だと批判して、将来そんなことはしないと大声を上げたのに、今になって私がそんなことをできるか。"

-韓国歴史研究会の後輩たちが一度お迎えしたと聞いたが。

"ただ夕飯でも一緒に食べようと言うので、行って簡単な回顧談を話したことはある。 韓国歴史研究会は6月抗争の後の1988年に新進進歩学者を組織して創立したが、私が初代会長を務めた。 学術団体協議会(学団協)初の常任代表もやった。"

国家情報院 過去事委に参加した時
謝罪と容赦、和解を期待した
ところが加害者は大声を上げ
保守言論が真実を覆い隠した

-なぜ歴史を専攻したのか?

"理科や商大は嫌いで、文科なのに文学的資質はなくて、政治は嫌いで、それで歴史学科に行った。 3選改憲反対デモに出て行ったが、その時すぐに処罰は受けなかったが、尾けられたのかまもなく学内問題を口実に1年の有期停学を受けた。 2学年だからと加減してくれたようだが、授業料は払っていながら停学にされた。 格好も悪いし、金は払わされて、最悪だった。 すぐに強制入営させられて3年後に維新体制下で復学した。 緊急措置4号で監獄見学もした。

入学8年目の1976年初めに卒業したが、その時ちょうど大学院ブームが起きた。 私が大学院を卒業する頃が大学で人を使い始めた時だ。 修士学位も受ける前にカトリック大の要請で青田買い式に1981年に席を得て、それから32年6ヶ月にわたり守ってきた。"

-疑問死真相究明委員会、国家情報院過去事真実糾明を通した発展委員会、真実和解のための過去事整理委員会などに参加した。

"疑問死委は2000~2002年に委員を務めたし、国家情報院発展委は2004~2007年に民間参加者側幹事を務めて委員長として空席でその場を三,四ヶ月務めたことがある。 真実和解委は2007~2009年に委員長であった。"

-どうして務めることになったのか?

"歴史学者として過去清算問題に関心を持っていたし、1995年全斗煥拘束処罰運動の時に参加してあれこれ仕事に呼ばれて通った。 真実和解委は委員長任期交代期に後任委員長が見つからないとして私に無理に無理に任せた。"

-成果や意味を評価するならば。

"疑問死委は解放直後の反民特別委以後初めて作られた過去事真相究明委員会だ。 過去事委は1970年代から中南米軍事独裁政権が崩れた後、その後処理のために作られ始め、マンデラの南アフリカ共和国でその価値が確認されて世界的傾向になった。 一時的で非司法的なこれら機構は法律ではなく理性と常識、合理的議論を通じた問題解決を指向する。 平和的方法で歴史転換を成し遂げるためのものであり、世界史的な意味を持っている。

ところがそれは思ったより難しかった。 根本趣旨は徹底した真実糾明を前提に、国家と加害者が誤りを率直に認めて心より謝れば被害者が許して和解するということだ。 だが、私たちは加害者の方が余計に大声を上げる国だ。 むしろ自分たちが‘我々が大韓民国を守った’と主張する。 保守言論の悪だくみと横暴も大きな障害物だった。 真実糾明は人間が耐えられる領域ではないのかと哲学的に悩んだ。"

-先日ドイツに行ってきたが、過去事清算と関連してドイツとわが国を比較するならば?

"ドイツも一般の人たちの関心が低いという点では同じだ。 ただし育ちゆく世代が既成世代に対してナチ ヒットラーの時どんなことをしたのかに関心を持って、絶えず問題提起をする。 これは教育の力だ。 68革命を通じても社会的な問題提起がなされた。 知識人、知性人がたとえ少数ではあっても問題提起をすれば、それが正しく正義である時は言論がそれを広めて正しい方向に世論を集めて行く。 だが、わが国ではその反対だ。 下から問題提起がなされても、それを広めるのではなく保守言論が歪曲し覆い隠して殺してしまう。"

-知的風土に差があるのか?

"ヨーロッパは啓蒙時代以来、長い間の近代の伝統の中で理性と常識を離れては存在できない社会になった。 私たちも朝鮮以来の知的伝統があったが、日帝時代と解放、6.25戦争(訳注:朝鮮戦争)などを経て、権威主義統治まで重なり合理と理性の土台がほとんど崩壊した。 その隙に利益集団となった保守右翼が公的領域を私的に掌握し、知的暴力を振り回した。 親日既得権勢力は外勢と資本、権力の腐敗構造の中で確固たる支配領域を構築した。 その枠組みから抜け出せば誰も生き残れなかった。 知的風土の荒廃化は避けられない。 浅薄な知的風土、これが今私たちの時代が最も深刻に悩み克服しなければならない課題だと考える。

南北も同じだ。 北は奇形的な南がなければ存在できず、南もまた、時代錯誤的な北なしには存在できない。 その結果、全面的対決でない適当な水準の緊張と葛藤を維持して敵対的共存を試みる。 外勢もそれを望んでいるようだ。 識者層さえ極めて当然視するこのような風土を、何世代か後に振り返ってみるならば真に理解し難く愚かに見えることだろう。

結局、分断体制が問題だ。 金・盧政府の時、分断既得権が動揺するや彼らは‘失われた10年’と騒いだし、李明博政権以後それを再構築している。"

NLLを振りかざし選挙に利用して
南北緊張を再び積み上げる勢力ども
愚かで理解できない
確実に記録して後世に残す

-国家情報院大統領選挙不法介入と西海(ソヘ)北方境界線論議が激しい。

"権威主義政権時は北方境界線に生半可に触れることは止めようというのが基本政策方向だった。 その後、金・盧政権になると保守右翼の攻撃が始まった。 意図的にその神経節に触れることによって不安要因を作り出したのだ。 今は一歩進んで、それを煽って選挙工作などに極端に活用している。

盧元大統領が最も高く評価されているのが10・4共同宣言で北方境界線に関する現実的で適切な二者択一解決策を提示したということだ。 既得権勢力はそれが実現されれば、自分たちの存立根拠が崩れると見ているようだ。 彼らの一部は紅衛兵的精神構造、タリバン的考え方を持っている盲動主義者だ。 構成員全体の長期的利益ではなく、目前の自分の利益だけを考えながら暴力的な大衆煽動を日常的に行う硬直したその日暮らし政治形態を見せている。"

-再び勉強するならば考古学をしてみたいと言われたとか。

"現実制約のない古代史研究が良く見えた。 だが、私が勉強した1970~80年代は浪漫的でも、勉強に専念できる時期でもなかった。 それでも自分の選択を後悔したことはない。 その時期には近現代史研究は忌避領域だった。 ‘1798年正祖末期社会問題’がかろうじて扱える最近世の研究テーマであった。 専任になった後‘1863年哲宗朝の農民抗争’、‘東学農民戦争’等に関する論文を書いた。 全て苦痛を受けた地方民に関する上疏文・隠密特使報告・地方首領の建議文などを分析したものだ。 そのように見れば私は朝鮮末期以後の下から始まった抵抗、農民抗戦の史実、運動史、戦争、民主化、市民抗争を一貫して扱った。 そのような研究を通じて社会変動の動力は何か、どんな過程を経て歴史が発展するのかということに拘ってきたと言える。

1985年1学期の時、韓国現代史講座を開設した。 わが国の大学史学科で韓国現代史講座を正式科目として開設したのはそれが最初だろう。"

-民主労働党綱領制定委員長はどうして引き受けることになったのか?

"1999年当時クォン・ヨンギル創党準備委員長の要請でそれを引き受け、40人余りの委員たちと共同作業をした。 2000年の民主労働党創党は、労働者闘争の総決算であり知識層と進歩勢力の総結集だったと言える。 したがって綱領に対する関心が非常に大きかったし、種々の論争的政派が対立した状況で容易なことではなかった。 民主労働党綱領ではあるが、一方では当時の韓国社会が指向する理念的指標であり理想だという意味を持たなければならなかった。 韓国知性史でもそれなりの象徴的意味を持つものだと見る。 個人的にこれをよくやったと感じている。"

https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/598430.html 韓国語原文入力:2013/08/06 15:50
訳J.S(5531字)

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