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[この人]歴史の中に朝鮮の愛を見つけた ‘日本の叔父’

登録:2009-03-23 17:14

原文入力:2009-03-22午後08:58:22
文を書くことで韓-日の壁 押し倒す作家 多胡吉郎

キム・ギョンエ記者

←日本人作家 多胡吉郎(53)氏

私たちの文化を愛することになった外国人たちはよく冗談めかして話す。“多分前世には韓国人だったようです。” 最近韓国で二冊目の本であり長編実話小説の<柳 金子 朝鮮を歌う>(21世紀ブックス編集・パク・ヒョンソク翻訳)を出した日本人作家 多胡吉郎(53・写真)も同じ返事をした。

“前世に3・1運動をした朝鮮人だから、その悔しさをほぐそうとまた韓国にくることになったのではないでしょうか?”

韓国陶芸家との友情談は‘もう一つの…’出版
独立を支援した ‘声楽家 金子’ 実話小説に

彼があえて ‘3・1運動’ との縁を指摘するのは、本の主人公である声楽家 柳 金子が1920年5月ソウルで初めての慈善独唱会を開いた理由がまさに “3・1独立運動失敗で絶望に陥った朝鮮の人々を慰めるためだったためだ。 「金子の公演の便りが載せられた当時の<東亜日報>の記事を見て、その時期に芸術で両国をつなごうと思った日本人がいたことが驚くべきで、2年以上にわたって資料を探し生存人物を捜し出し取材をしました。」

金子は‘朝鮮工芸を礼賛した美学者’であり‘光化門を守った日本人’として有名な柳宗悦の妻だ。彼女は20~40年代初め、夫と共に‘朝鮮民族美術館設立’のために無料巡演を開いたり夭逝した天才詩人 南宮璧をはじめとする<廃虚>同人らと交流し熱情的な音楽活動をした。小説で彼は金子が宗悦と結婚した時から韓-日国交正常化以後の68年76歳で梨花女子大講堂で招請公演をする場面までを感性あふれる文体で描きあげた。

彼がこのように金子の人生発掘をなし遂げた背景には、26年前に彼と韓国を結んだ2つの特別な縁がある。83年当時<NHK>の新参プロデューサーとして彼は壬辰倭乱の時に連行されて行った朝鮮陶工たちが定着し日本陶磁器文化の根となった下関で‘韓-日陶芸家の交流’を扱ったドキュメンタリーを製作した。<NHK>のカメラマンだった父親からしばしば聞いた “韓国が日本文化の根” という話を実感することとなった経験だった。

“その時、放送局の近所で夜間食堂をしていた大邱出身の70代在日同胞のおばあさんと親しくなりました。別れる時になって初めて自分の韓国名を知らせたそのおばあさんに人参酒と明太子のような食べ物の味も学び、熱い情のようなものを感じ韓国文化に対する好奇心が沸きました。”

ドキュメンタリー取材のために訪ねて行った京畿道,利川の陶芸家チョ・ソンウ氏と会ったことが彼の運命を変えた。「延世大史学科出身で李朝茶碗の脈を引き継ごうと生涯無二の道を歩いているチョ先生の純粋な情熱はもちろんのこと、その家族たちの暖かい人情を忘れられなかった」彼は直ちに韓国語を習い始め、翌年から休暇や連休になればチョ氏の家を訪れた。韓国の言葉と文に慣れたある日、彼はチョ氏に日帝強制支配期の日本の蛮行について丁重な謝罪をし、その時から二人は“心を開いた友人”になった。そのように“お客さんから友人に、ついには叔父と”呼ばれ、チョ氏の長男の結婚式で主礼を引き受けることになった彼の話は、昨年6月<もう一つの家族>(21世紀ブック編集)として出版された。

彼は22年間のプロデューサー時代、自身の代表作として躊躇なしに<空と風と星と詩-尹東柱,日本統治下の青春と死>を挙げる。95年光復50周年(日本の終戦50周年)記念で<NHK>と<韓国放送>(KBS)が共同製作し史上初めて韓-日同時放映した作品だ。

昨年末<柳 金子…>出版作業のためにソウルに来た彼は、ロンドンから来る途中だった。2002年退職し、文筆家として専業した彼があえてロンドンに定着した理由が気になった。

“特派員として3年間勤めたが、そこでは韓-日両国を客観的に見られましたよ。世界地図を置いてロンドン-ソウル-東京をつなぐ二等辺三角形を描いてみれば、韓-日間の距離は本当に短いです。金子と南宮壁がそうだったように両国の壁を越えて真の友情を繋ぐことができる作品をずっと書きたいです。”

彼が構想する次の作品は ‘日本が絶対付いてこれない韓国だけの18種’(仮題) 「よく日本の人々は韓国にはかなり以前に日本がなくしたものがあると言いますがそれは誤解です。韓国には日本に本来ないものがたくさんあります。穏やかで深い情はその一つでしょう。」

文・写真キム・ギョンエ記者ccandori@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/345504.html 訳J.S