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[寄稿]自己陶酔的な自国礼賛の落とし穴

登録:2021-01-29 01:59 修正:2021-01-29 11:16
「国ポン」言説は肝心な問いは隠ぺいする。「私たち」とは、果たしてそれほど同質な集団なのか。ソン・フンミンとBTSはいつも「私たち」に含まれるだろうが、そもそもあなたは偶然同じ国に生まれたにすぎない。しかも、ソン・フンミンとBTSの成功への貢献度から見ても、米国やマレーシアの熱烈なファンたちの方が、あなたよりずっと彼らの助けとなっていた可能性が高い。

 自己陶酔的な自国の礼賛、すなわち「国ポン(クッポン。国家とヒロポンの合成語。自国をむやみに称賛すること)」は巨大な流行であり、ビジネスモデルとなって久しい。最近ではそんな「国ポン」を批判する「反国ポン」コンテンツがマスコミの注目を集めた。「ドゥユーノウ、ソン・フンミン?」「ドゥユーノウ、BTS?」などの質問を絶えず繰り返す韓国人を風刺する「ドゥユーノウユニバース?」シリーズが韓国人の間でも人気を集めたのは、「国ポン」に対する大衆の疲労をよく表している。しかし、それで終わったわけではない。「正国ポン」と「反国ポン」の後に、ついに登場したのは「合国ポン」だった。過度な「国ポン」は悪だが、だからといって過度な自国卑下も悪だという具合だ。そして、大韓民国の成し遂げたことを客観的に評価し、肯定しようと力説する。公論の場で繰り広げられる「国ポンの正、反、合」を見物していて、私はずっとこのような疑問にとらわれていた。「いや、だからどうしろと?」

 もちろんユーチューブなどで流通している「国ポン」コンテンツは滑稽だ。論評する意欲もわかない、くだらないレベルのものだ。強いて比較するなら「正国ポン」よりは「反国ポン」や「合国ポン」コンテンツの方がもっともらしい。それなりに筋の通ったことを言っている。しかし、それがどうしたというのか。「国ポン」に酔おうが、それを嘲笑しようが、バランスを取ろうが、いずれにせよこれらすべてが「国ポンコイン」の一種であるに過ぎない。いつか哲学者のスラヴォイ・ジジェクはこう語ったことがある。「『ユダヤ人は貪欲だ』という発言に対し、『すべてのユダヤ人がそうではない』と答えてはならない。その言葉に対する正しい答えは『ユダヤ人はそれとは無関係だ』だ」。個人の特性は彼の国籍には還元されず、その逆も同様だ。

 「国ポン」が絶えず召喚され続ける理由は何か。表面的な理由は単純だ。「国ポン」コンテンツは大衆の関心を引き、その関心は金を生み出すからだ。それではなぜそもそも関心を持つようになったのか。この問いはこのように言い変えることもできる。なぜ、人々は様々なアイデンティティのある中で、特に国家(民族)アイデンティティに過度に没入するのか。何人かの学者は、愛国心という古くて強烈な感情を、人間の長きにわたる集団生活の中での進化の過程で形成された習性だと説明する。自分の集団の正当性を確信し他集団を排斥する態度が、個体の生存に有利に作用した可能性があるというのだ。部族間の殺戮が頻繁だった時代の行動様式を、今日の現実にそのまま適用することが妥当かどうかはよく分からない。しかし「文明」の歴史は、人類の歴史に比べれば極めて短いのも事実だ。もしかすると私たちは「国ポン」という形で部族時代を踏襲しているのかもしれない。

 一方、「国ポン」言説において、人類学的起源以上に考えるべき問題は、それが享受する者に提供する効能感と社会的効果だ。人々が無意識に「(○○事件に対する)日本現地の反応」をクリックする理由は何か。まるで静脈注射のように即時的な優越感を与えてくれるからだ。もちろん、時に「国ポン」コンテンツは劣等感も抱かせるが、それは将来得られる「真の優越感」のための準備段階として意味があるのだ。そのため「正国ポン」中毒者は「反国ポン」や「合国ポン」も熱心に消費するようになる。彼らにとって、これらすべてが快楽生産装置なのだ。

 「国ポン」言説は優越感と劣等感を刺激し、果てしない議論を巻き起こしつつも、肝心な問いは隠ぺいする。あまりにも当然のこととして前提される「私たち」とは、果たしてそれほど同質な集団なのか。ソン・フンミンとBTSはいつも「私たち」に含まれるだろうが、そもそもあなたは偶然同じ国に生まれたにすぎない。しかも、ソン・フンミンとBTSの成功への貢献度から見ても、米国やマレーシアの熱烈なファンたちの方が、あなたよりずっと彼らの助けとなっていた可能性が高い。なのに、どうしてあなたは彼らの成功を誇りに思うのか。またはこのように問い直すこともできる。あなたが生まれる前に終わっており、介入できなかった事件、例えば「庚戌国恥」、「3・1運動」、高度経済成長、民主化などについて、あなたはなぜ恥に思ったり、誇らしく思わねばならないのか。

 メディアは「国ポン」を通じて私たちを共感の共同体として再現するが、現実において私たちは、自助努力の地獄でもがく個別の人間として孤立している。「国ポン」言説は団結を言うが、その本質は位階秩序の論理であり、優勝劣敗そのものだ。そして実際には内部の植民地を絶えず作り出している。私は自分を誰と、どんな集団と同一視しているのか。この問いを手放した瞬間、私たちはいつでも「国ポン」の落とし穴にはまり得る。

//ハンギョレ新聞社

パク・クォニル|社会批評家 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/980819.html韓国語原文入力:2021-01-28 14:36
訳D.K