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SMエンタの「アイドルシステム」、K-POP世界進出の道開いた(2)

登録:2023-03-22 06:49 修正:2023-03-22 09:45
エコノミーインサイト _ Economy insight 
SMエンターテインメントの足跡と経営権争い
グローバル音楽市場の規模(単位:億ドル)。赤はCDやLPなど、紺はストリーミング、空色はダウンロード、ピンクはコンサートのチケット、黄色はバックグラウンドミュージック=資料:国際レコード・ビデオ制作者連盟(IFPI)、「グローバル音楽報告書」(2002)//ハンギョレ新聞社

(1から続く)

 2000年代に入って、韓国の大衆音楽界は危機を迎えた。世界的にデジタル技術とインターネットが普及されたことで、音楽産業にもデジタル化の風が吹き荒れた。MP3ファイルがカセットやCDに取って代わり、アルバム市場が大きく萎縮した。違法コピー問題も浮き彫りになった。アルバム製作者にとっては収益が大幅に減る変化だった。韓国の大衆音楽界は1990年代に大きな好況を享受したため、このような変化がさらに大きな痛手となった。

 キム・ゴンモ、チョ・ソンモ、H.O.T、シン・スンフンなど1990年代の歌手のアルバム販売量は、100万枚を超えることが多かった。しかし、デジタル音源の比重が高まり、2000年に約4104億ウォン(約415憶円)だった韓国のアルバム市場規模が毎年25%以上減り、2004年には1338億ウォン(約135億円)水準にまで減少した。2004年以降はオフラインで50万枚以上売れたアルバムが一枚もないほどだった。防弾少年団(BTS)の登場で2016年にようやくこの記録が破られるほど、アルバム市場の低迷が続いた。

 その代わり、デジタル音源市場は成長を続けた。1997年にMP3ファイルが初めて公開された後、音源をダウンロードしたり、リアルタイムで楽しむストリーミングサービスが増えた。しかし、デジタル音源市場の成長に伴い、「隠された市場」の規模も大きくなっていった。MP3ファイルを共有したり、コピーして流通することが増え、音楽著作物の違法コピー問題が浮き彫りになった。2003年、ソリバダと音楽著作権協会間の著作権侵害訴訟が代表的な事例だ。

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市場の限界を突破

 芸能プロダクションにとってアルバム収益の減少は深刻な危機だった。アルバムとコンサートが収益の二本柱だったからだ。韓国でコンサート収益を画期的に引き上げるのは難しかった。国内市場の限界が明確なら、答えは海外市場で見つけるほかなかった。イ・スマン氏は東アジア諸国に市場を拡大するしかないと判断した。イ氏は所属のアーティストが中国や日本などすべてのアジア諸国で活動する「アジアネットワーキング」を夢見た。韓中日を合わせれば市場規模が15億人に達する。アジアで1位になれば世界で1位になるという考えだった。

 イ氏が真っ先に試みたのがH.O.Tを通じた中国進出だった。1997年、ドラマ「たかが愛、されど愛(原題)」が中国で放送され、韓流に友好的な雰囲気が作られた。デュオ「クローン」などのダンス音楽が台湾や香港などでブームを巻き起こした。1998年の中国盤アルバム発売、2000年北京H.O.T単独コンサートなどを通じて成功の可能性も確認された。しかし、中国であげた収益は微々たるものだった。違法コピーされたアルバムの比重が高かったからだ。計10万枚近く売れたH.O.Tのアルバムの販売収益でSMに送金された金額はわずか250万ウォン(約25万3千円)程度だった。

 SMは日本に目を向けた。世界で2番目に大きい日本市場は、アルバムはもちろん、公演市場もしっかりしているのが魅力だった。1998年基準で日本の音楽市場規模はおよそ韓国の30倍だった。為替レートなどの影響で、国内と似たような公演でも数倍以上収益を上げることができた。しかし、その分、市場への参入の壁も高かった。

 日本進出に向け、SMは1997年、ガールズグループ「S.E.S」を企画した。S.E.Sは在日コリアンをメンバーに入れるなど、グローバル進出を視野に入れて作られた。ところが、適切でない日本のパートナーを選び、結果はそれほど良くなかった。徹底した市場分析が行われず、SMは日本から撤退を余儀なくされた。

 SMの日本市場進出の夢は2000年、BoAのデビューで再び広がった。分析の結果、日本では韓国より若い歌手に関心が高く、言葉も完璧でなければならなかった。SMは当時小学校5年生だったBoAを東京都内の家庭でホームステイさせた。正確な日本語の発音と日本文化を教えるためだった。BoAは日本に滞在しながら歌、ダンス、舞台マナー、言葉について厳しい訓練を受けた。デビュー当時も「韓国人」であることをアピールせず、日本語のアルバムで勝負に出た。

 結果は大成功だった。2001年5月、日本デビューを果たしたBoAは、日本進出1年目にしてオリコンチャート1位を獲得し、日本市場のトップに立った。BoAの日本進出戦略は、さまざまな面で従来とは違っていた。スカウトからトレーニングは韓国のSMが担当するが、マーケティングなどは日本現地のスタッフによって行われた。徹底的に現地の言葉で歌うこともこれまでとは大きな違いだった。

 K-POPを歌う韓国人歌手でもなく、J-POPを歌う日本人歌手でもない「J-POPを歌う韓国人歌手」という独特の地位を持つグローバル商品だった。日本での成功後、韓国人であることを浮き彫りにし、「アジアのスター」の地位を固めた。韓流の外国進出における戦略の転換が生んだ結果だった。その後、K-POPが世界に進む第一歩を開いた成功作だった。

キム・ユンジ韓国輸出入銀行海外経済研究所首席研究員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/economy/economy_general/1084601.html韓国語原文入力:2023-03-2200:21
訳H.J

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