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[朴露子ハンギョレブログより] 革命の母、革命的なインテリゲンチャ

登録:2013-06-18 18:52 修正:2013-06-21 21:49
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 今も鮮明に覚えているのは、私が小中学校時代に常に抱いていたある疑問のことです。社会科学の授業で教師たちが私たちに常に強調したのは、「社会主義革命においてはプロレタリアートがヘゲモニーを行使する」というところでしたが、実際に社会主義革命を導いた人々の面々を見れば、その出身成分は「プロレタリアート」とはほとんど無縁に思えました。荒っぽく言えば、最も上には「理論家」としての貴族/官僚(プレハーノフ、レーニン)、平民地主(トロツキー)、少なくとも学校教師などの現場のインテリ(ブハーリン)出身であったとすれば、それよりやや下には貧しい家庭に生まれたにもかかわらず苦学・独学でかなりの知識水準に達した「努力型」のインテリ(スターリン、キーロフ)たちがいました。とにかく、政治的な影響力があまりなかったカリーニンを除けば、30年代以前まではボルシェヴィキ政党の指導部には工場労働者出身は一人もいなかったのです。それでは果たして「労働階級のヘゲモニーの実体とは何か」と教師に聞くと、教師は「レーニンによれば、前衛政党による急進思想の流入なしには、労働運動は組合主義的な水準を乗り越えることはできない。この急進思想の流入という使命を、まさにその知的な背景からその思想に接する位置にあった革命的なインテリたちが果たした」と答えました。

1919年の写真。左からスターリン、レーニン、カリーニン

 実は、今考えてもその答えは正しかったと思います。労働階級の利潤追求体制に対する反発は一日も休まず様々なやり方で繰り広げられているものの、絶対的に多くの場合、これは当面の経済的利益をめぐって起こす反発であり、体制はあれこれの譲歩、脅迫、包摂などでその反発をいくらでも抑えることができます。東アジア地域で現在ストライキ運動が最も活発な地域である中国を見てみましょう。労働者などの基層民たちによる闘争の間接的な成果として何年か前に10年間の契約労働後は正社員への転換を保障する新たな労働法が採択され、農民工(農村出身の移住労働者)の臨時都市居住証制度の実施、かなりの賃上げなどを勝ち取ることはできたものの、「中国特有の新自由主義」そのものを全体的に乗り越えることは期待さえもできません。前衛政党のオルグとしての役割を除けばですね。しかし、そのような前衛政党を作ることのできる革命的なインテリ階層は、今の中国では(韓国と同じく)まだ形成されていません。100年前であれば、中国の革命的なインテリ階層は渡日留学生などを中心にして1900年代初頭にはほぼ形成され、辛亥革命に続き20年代の国民党、共産党運動の母体になったのです。つまり、毛沢東が1921年に共産主義に切り替え共産党創立運動に合流した際、彼にはロ-ルモデルとして孫文、黄興、宋教仁のような先輩たちがいたということです。1895年、レーニンがサンクト・ペテルブルクで「労働階級解放闘争同盟」を結成した際、彼には前世代の「人民の意志」組織を始めとする数多くの革命的なインテリゲンチャ主導の運動が事例として参照されたのです。中国では革命的なインテリゲンチャ階層が形成されたのは、凡そ1900年代初頭であり、ロシアでは1860~70年代ですが、これに基づき前衛政党が形成されなかったとしたら、いかなる「労働階級革命」もできなかったはずです。では一体いかなる条件の下でこのような革命的なインテリゲンチャ階層の形成は可能でしょうか。そしてなぜ今日の韓国では革命的なインテリゲンチャが――たとえグループやセクトの中には少し存在しても――一つの階層としては存在せず、おそらくしばらくは存在しそうもないのでしょうか。

 先ずは偏見を一つ捨てなければなりません。革命的なインテリゲンチャは現社会における役立たずの「余剰人間」たちとは確実に区別されます。実は革命的なインテリゲンチャの形成、発展期――ロシアの1860~1910年代、中国の1900~1940年代、朝鮮の1920~40年代――は、たいてい近代社会の高速発展の時代です。そのような時代には有能な弁護士レーニン、27才の年齢で故郷の湖南省で有名な雑誌『湘江評論』を編集し多くの論文を寄稿するほど有能だった若き批評家・教育者の毛沢東、『東亜日報』で筆鋒をふるい、いくらでも高級物書きとして成功できたはずの朴憲永――彼らは実は、近代発展期社会の「模範生」に近い人物たちでした。心構え一つで上手に生存できたのみならず、近代資本主義社会で大きく「成功」できる人々でした。では、彼らがこうした平凡な道を歩まず危険千万な職業的革命家の道を選んだ理由は? もちろん、個々人の次元では「民衆に対する負債意識」、「良心」のようなものを挙げることもできますが、このような個別的な「良心」を全社会的に組み合わせると、結局は現体制/支配階級の伝統性を認めることができないということに対する集団的な共感のような情緒を挙げなければならないと思います。「良心」とは、結局一個人が社会的な不條理に黙っていられないことを意味しますが、この「良心」が革命闘争に転換するためには、現体制/支配階級には「不條理」しかないということに対する社会的な合意が形成されなければなりません。

 実際は、ロシアの1860~1910年代、中国の1900~1940年代、朝鮮の1920~40年代は、そのような合意が実在しました。ユダヤ人虐殺や大々的な農民餓死事態などが起こり続けているにもかかわらず、無駄な領土拡張に血眼になった後進国で常習侵略国であった帝政ロシアを、良識あるインテリはどうしても大義のある政権と認めることができませんでした。魂を売りたくなければ、進んで闘わなければならないということに対する広範な有識層の合意が成り立ち、革命的なインテリゲンチャは幾多の一般知識人たちに尊敬され、有識層の中で一種のヘゲモニーを獲得することができました。このような状況下でなければ、革命的なインテリゲンチャの一部であるマルクス主義的な社会主義者による工場労働者の包攝、すなわち一種の「知識人―労働者革命の連帯」が成功し革命の基盤が強固なものになることはありえないでしょう。同様に、名分のない(とみられる)清朝末期、名ばかりの民国、軍閥政権、そして30年代の国民党独裁下に生きなければならなかった魯迅、巴金、丁玲、艾青などといった、当時の中国の知識人層を代表した門戸たちは果して何になれたでしょうか。そうです。艾青のように自ら共産党に入党したり、魯迅のように党籍のない社会主義者として晩年を過ごすなどといった具合でした。読書人の間で社会主義革命が時代的な要請として受け入れられたことにより共産党と紅軍は農民層の包摂、指導に成功し、……その後のことならみなさんの方が私より遥かにご存じでしょう。朴憲永と金日成の先輩・後輩たちに日帝統治は果して名分がありえたでしょうか。言うまでもありません。結局、有識層の間における体制に対する共通の拒絶反応は窮極的に革命を生み出す最も重要な要因といえるでしょう。

 韓国ではこれとやや類似した状況が全斗換末期に形成されました。しかしこの場合は「体制/政権に対する知識人の共通の拒絶反応」はわずかに青年知識人の一部に限られ、全社会的な影響力はほとんどありませんでした。主にキャンパスを拠点とした「運動圏」の外の社会は、軍人たちの退出と日本や西欧のような「正常に」回る社会を描いたのであり、「体制」そのものや支配層全体を問題視したのではありませんでした。結局外部のモデルの没落(ソ連、1991年)ないしその弱点を露出させた極端な危機状況(北朝鮮の苦難の行軍、1990年代後半)に接し、その権威にのみ頼っていた「運動圏」は無力化し、かなりの部分はむしろ体制に個別的に包摂されてしまいました。そしてかつての闘士たちがセヌリ党や民主党の国会議員になることは、新自由主義体制の正当性に対する多数の信頼をより一層強める効果をもたらします。高学歴者であれ低学歴者であれ、「乙に対する甲の横暴」に憤慨しても、絶対多数の韓国人は利潤追求本位の、財閥中心の経済/社会体制と名ばかりの「代議民主主義」の政治体制を当然視します。このような状況下でどうして「革命」を論ずることができるでしょうか。

 しかし、体制の限界はもしかしたら私たちが考える以上に早く露出するかもしれません。今日ポルトガルやスペイン、ギリシアのように、韓国の若者の多くが正常な「就職」の機会を初めから閉ざされ、「一生バイト」としての自分の位置を悟るようになれば、もしかすると体制に対する社会的合意は崩れるかもしれません。ただし、そのようになるまで、いったいどれだけ多くの個人が多くの苦しみを味わわなければならないのかを考えるととても悲しくなります。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/59898 韓国語原文入力:2013/06/05 18:52
訳J.S(3685字)

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