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[世相を読む] ‘労働’なき経済民主化議論/金東椿

登録:2012-07-31 09:47 修正:2013-01-29 10:18

原文入力:2012/07/30 19:22(1692字)

←キム・ドンチュン聖公会(ソンゴンフェ)大社会科学部教授

 ホ・チャンス全経連会長が 「経済民主化が何の意味かわからない」 、 「既存の法でも全て成就できることではないのか」として政界の経済民主化議論に厳しい忠告を与えた。 企業家は利潤を多く出して税金多く納め雇用を創出すればそれで良いのではないかという話だ。 財閥支配構造改革、経済力集中緩和、中小企業保護などのための法と制度を整備することが重要ではあるが、確かに法と制度がないために財閥の経済力集中がこれほどに深刻化されたわけではなかった。 確かに彼の話も一理あることが、今経済民主化を公約に掲げたセヌリ党と民主統合党も金大中政府以後今まで経済再生、国家競争力の旗じるしの下に財閥企業が思う存分活動できるよう規制緩和・減税・柔軟化政策を推進したりして認めてきたではないかということだ。

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/544869.html

 あらゆる姑息な手段で路地市場まで全て掌握して経済生態系を破壊し、中小企業に対して君主のように君臨しながら庶民に血の涙を流させた一部大企業を擁護するつもりはないが、大企業の‘私益’がすなわち‘公益’だと強弁し、彼らがそのようにできるように環境を作った当事者こそがまさに去る10年余りの間の政界と官僚らではないのか? 司法府は袋小路に追い詰められて抵抗するストライキ労働者に数億ウォンの損害賠償を命じ、警察は労働現場での外注警備業者の暴力に目をつぶり、公正取引委員会は市場秩序をかく乱した大企業を処罰するフリをするだけだったし、大統領は反社会的企業家を赦免復権したではないか?

 従って問題は企業というよりはむしろ政界と政府にあるとみなければならない。 すなわち公共エリートの公人意識の不在が問題だ。 そしてさらに遡れば経済は単に企業家のことだと見る親資本 反労働のイデオロギーが根源だ。 企業家を‘経済人’として、企業家集団を‘経済人連合’と呼んで経済教科から完全に‘労働’を抜いてしまうことによって、今や労働は確かに生産の付属品のように扱われるに至った。 生産の主役であり企業の最も重要な構成員が使い捨てカップのように使い捨てられていのに、国家競争力が高まって経済がうまく回るということに何か意味があるのだろうか? 労働者という人間変数が経済議論から抜け出ることによって労働者は仕事場で自身の命を奪い取るかも知れない有害物質に露出してもそれが何かをあえて尋ねることもできず、緊迫した経営上の理由だからと構造調整決定が下されてもそれが果たして合理的で妥当な会計に基づいたことかを問い詰めることもできず、不道徳な企業主を処罰しろと要求することもできない。 国家は労働者に「与えられるとおりに受けとり、言われたとおりに働け」と言う。

 事実、組織労働勢力や労働者にも大きな責任がある。 今日、双龍(サンヨン)車解雇労働者が体験している苦痛を10年、20年前に体験した先輩労働者もそれを対岸の火事を見るようにしていはしないのか? 三星(サムスン)労働者白血病問題がそのように社会的イシューになっても、まともに介入さえしなかった組織労働は今の福祉・経済民主化議論でも存在感自体がない。 スウェーデンやドイツのように労組代表が理事会の3分の1を占めようという要求は持ち出せなくとも良い。 単位事業場の労働者が会社不渡りの全責任を負って整理解雇の対象になり、外注警備と警察に乱打され凄絶に孤立した闘争をさせていてはならないのではないか?

 労組が企業経営に発言権を行使して、非正規職労働者が色々な形態の協同組合を作って自助できるように生きる道も開けてやり、地方自治体や中央労使政府委員会を実質的な機関にする方法も必要だが、労働が社会的存在感を持つことこそがさらに至急だ。

キム・ドンチュン聖公会(ソンゴンフェ)大社会科学部教授

原文: 訳J.S