登録 : 2013.05.11 06:09 修正 : 2013.05.16 21:58

朴正熙政権の破局は誰も予想できない方式で訪れた。 1979年10月26日中央情報部長キム・ジェギュは‘行事’が開かれた宮井洞(クンジョンドン)の安家で‘巨事’を実行した。 1979年11月7日朴正熙大統領狙撃事件に対する現場検証で、キム・ジェギュが捕縄され拳銃を持ち当時の状況を再演している。 <ハンギョレ>資料写真

"時局が危険だ 今晩片づける"
挙事の直前、キム・ジェギュの一言に
腹心らは迷うことなく加担
"このうじ虫め…"
チャ・ジチョルに続き朴正熙を撃った
計画は的中したかに見えたが…

改憲建議など極限状況を避けるための
すべての方法は失敗に帰した
釜馬(プマ)抗争に敏感になった大統領と
"殺してもかまわない" 煽ったチャ・ジチョル
彼は流血事態を防ぐために
朴正熙を除去することにした

 1979年8月のYH事件以後、金泳三総裁の職務停止仮処分申請、金泳三の議員職除名、激烈な釜馬抗争の勃発と戒厳令宣言などで状況は絶頂に向かって息詰まるように駆け上がりつつあった。 破局はあまりにも突然に誰も予想できない方式で訪れてしまった。 維新体制守護の総責任者である中央情報部長キム・ジェギュが実兄のような格別の仲だった朴正熙を銃で撃ち殺したのだ。 キム・ジェギュの朴正熙殺害事件捜査責任者であった全斗煥(チョン・ドゥファン)は10・26事件を「キム・ジェギュが誇大妄想にとらわれて大統領になるという呆れ返る虚欲ゆえの内乱目的殺人事件」と規定した。 朴正熙の追従者にとってこの事件は‘背徳者’キム・ジェギュが公的には‘国父’で、私的には‘恩人’である朴正熙大統領を‘殺害’(殺害というのは封建時代にでも使われる言葉だ)した事件だった。 ある人々にとっては権力の最高頂点にある者が自分たちどうしで銃撃って殺し、あたふたと騒動を起こした事件であったし、またある人々にとってはキム・ジェギュの生半可な射撃で民衆蜂起による維新政権打倒の機会を逃してしまった残念な事件だった。 戒厳下の徹底した言論統制のために外部にはほとんど知らされなかったが、意外にもキム・ジェギュは自身の行動を断固として民主救国革命と規定していた。

大統領・陸軍参謀総長とそれぞれ予定していた夕食の約束

 10月26日午後4時10分頃、警護室長チャ・ジチョルは中央情報部長キム・ジェギュに電話で午後6時に宮井洞(クンジョンドン)の中央情報部安家(安全家屋-大統領が宴会をしたり、人に会うための秘密場所)で晩餐するので準備しろとの通知を受けた。 運命の10・26。その日を選んだのはキム・ジェギュではなく朴正熙自身だった。 キム・ジェギュは陸軍参謀総長チョン・スンファに宮井洞で夕食でもしようという電話をかけた。 大統領との晩餐があるのに、二重に約束を取ったのだ。 キム・ジェギュは南山(ナムサン)の執務室を出て宮井洞の安家に来て、自身の執務室の金庫にあった拳銃に実弾を装填した。 キム・ジェギュが宮井洞に到着した頃、中央情報部儀典課長パク・ソンホは海兵隊同期であり懇意な友人でもある警護室警護処長チョン・インヒョンから‘大行事’を準備しろとの通知を受けた。 ‘大行事’は主に大統領、中央情報部長、秘書室長、警護室長など維新体制の権力序列1位から4位までの人々が2~3人の女性と共に酒を飲む席であり、‘小行事’とは大統領が女性に隠密に会う席であった。 大統領府警護室次長ですらその存在を知らないほどの隠密な場所であった宮井洞の安家では‘大行事’が月に2回、‘小行事’月8回、都合毎月10回ほどの宴会が開かれたという。 警護室と中央情報部の担当職員の間では‘大行事’、‘小行事’という言葉が完全に公式用語になっていた。 中央情報部儀典課長の主な任務は、このような行事が行なわれる宮井洞安家の管理とそこに参加する女性を調達することだった。 その日もパク・ソンホは宴会まで一時間半ほどの間にあたふたと宴会に参加する女性を‘交渉’し、ひそかに迎えいれ厳しく教育させて宴会に押し込まなければならなかった。

 宴会が始まって一時間ほど過ぎてからキム・ジェギュは隣の建物で自身を待っていた陸軍参謀総長チョン・スンファのところへ行った。 チョン・スンファはキム・ジェギュの代わりに彼を接待した中央情報部第2次長補キム・ジョンソプと食事中だったが、キム・ジェギュは彼らに大統領との食事が直ぐに終わるからもう少し待ってほしいと話した。 キム・ジェギュは2階の執務室から拳銃を持ち出してきた後、儀典課長パク・ソンホと現役陸軍大佐で自身の随行秘書であるパク・フンジュを呼び途方もない話を始めた。 「時局が危険だ。 国が誤れば私たちも皆死ぬ。 今晩片づける。 部屋の中から銃声が聞こえたら、お前たちは警護員を制圧しろ。 応じなければ発砲しても良い。」

 二人が慌てたそぶりを見せるとキム・ジェギュは陸軍参謀総長と2次長補も来ていると言い、覚悟はできているかと問い直した。 パク・ソンホがうっかり 「閣下までですか?」と尋ねるや、キム・ジェギュは「ウン」と答えた。 パク・ソンホが 「警護員が7人(実際は4人)もいるので、次の機会に先送りしてはどうでしょうか?」と尋ねると、キム・ジェギュは今日やらなければ保安が漏れるとして 「賢い奴3人だけを選んで俺を援護しろ。 全て片づける」と断固として話した。 パク・ソンホは30分だけ余裕を欲しいと頼んだ。 キム・ジェギュは維新体制の絶対権力者 朴正熙を殺害するという途方もないことを準備しながら、自身の最高腹心にも挙事の直前に計画を知らせた。 キム・ジェギュは被疑者尋問調書で「李朝時代以来、2人以上が謀逆をして成功した事例は見られなかったため、一人で没頭し構想した」と述べた。

 必ずしも部下が信じられなかったからではなかった。維新政権の情報収集体制の頂点にいた彼は、一度口に出した話は必ず諜報網にひっかかることになっているということをよく知っていた。 パク・ソンホはキム・ジェギュが一時、軍から追い出され、大倫中学校で体育教師をしていた時の弟子で、キム・ジェギュが特に中央情報部に引き入れて最も秘密の任務を任せた者であった。 パク・フンジュは中尉時期に師団長だったキム・ジェギュの専属副官となって以来、キム・ジェギュが6管区司令官、保安司令官、中央情報部長へ異動するたびに連れてきて4度も一緒に勤めた最も可愛がった部下だった。 驚くべきことは、パク・ソンホとパク・フンジュのみならず「賢い奴3人」に選ばれたイ・ギジュ、ユ・ソンオク、キム・テウォンも全員がキム・ジェギュの一言で大統領殺害計画に躊躇なく加担したという点だ。 これはキム・ジェギュが部長としての権威だけでなく、人格的にも側近部下から末端まで絶対的な信頼を得ていたことを意味する。 特に予備役海兵大佐として男の中の男を自負していたパク・ソンホは、現代版‘採紅使(訳注:朝鮮燕山君の時、全国から美妓を集めてくることを任務とした官吏)’役をすることを死ぬよりも嫌ったと言う。 権力の私物化と道徳的堕落が極に達した時、そのことを実際に担当しなければならなかった実務者の幻滅も深まるばかりだったのだ。

"4・19のようなデモがあれば発砲命令する"

 朴正熙が死んだ直後、事件の真相が明らかになるまでの緊迫した数時間、維新政権の要人らはキム・ジェギュではなくチャ・ジチョルが朴正熙を殺害したのではと疑ったという。 それほどチャ・ジチョルの越権は深刻だった。 チャ・ジチョルは首都警備司令部を警護室長の統制を受けるようにし、野戦砲兵団とミサイル部隊を創設した。 彼は警護室主管で盛大な規模の閲兵式を挙行し、朴正熙にせがみ警護室次長を中将に、次長補を少将に補足任命した。 大尉出身のチャ・ジチョルがこのように大盤振る舞いをすると軍内部では彼に対する批判が高まったという。 チャ・ジチョルの越権は1978年12月総選挙敗北の責任を負って大統領府秘書室長キム・ジョンニョムが退いてからより一層激しくなった。 新任秘書室長キム・ゲウォンは陸軍参謀総長と中央情報部長の要職を務めたが、柔順な人物であったし、朴正熙が期待した役割もキム・ジョンニョムのように経済政策を総括し政治資金の集金と管理を専門担当することではなく、ただ酒飲み仲間の役割をすることだった。 チャ・ジチョルは年齢から見ても経歴から見ても、完全に先輩であるキム・ゲウォンが自身より遅く大統領府で仕事をすることになるや、報告順序を譲歩しないなど色々な面で‘序列決め’ゲームを行った。 侮辱感を感じたキム・ゲウォンがチャ・ジチョルをただではおかないと憤慨するや、キム・ジェギュは大将出身が大尉出身と争えば隊長が非難を受けるとキム・ゲウォンをなだめたと言う。 しかし、チャ・ジチョルはまもなくキム・ジェギュも色々な面で踏みにじり始めた。 警護室に情報処を置き、また非公式的な私設情報隊まで運営して情報収集に出るかと思えば、4選の国会議員経歴を根拠に国会や新民党に対する政治工作を自身がデザインして中央情報部に実行させるなどの越権を行った。 朴正熙はこれらすべてのことを少なくとも放任、時には推奨すらした。

 チャ・ジチョルの傲慢放縦が深刻だったとしても、問題の根源も、10・26事件の直接的な理由も朴正熙にあった。 キム・ジェギュが引き金を引いた最も切迫した理由は、釜馬抗争に対する朴正熙の態度に求めなければならない。 キム・ジェギュは釜山の現場に行ってきた後、釜山の騒擾は不純勢力や新民党の扇動のためではなく、維新体制に対する民衆蜂起であり間違いなく5大都市に広がるだろうと報告した。 すると朴正熙はいきなり怒り出し「今後ソウルで4・19のような示威が起きれば」「今度は大統領である私が発砲命令をする」と豪語した。 この席に同席していたチャ・ジチョルは「カンボジアでは300万程度殺しても平気だった、デモ隊員の100万~200万程度殺しても心配ありません」と朴正熙を煽った。 キム・ジェギュは1946年に陸軍士官学校2期同期生として会って以来、同郷出身の朴正熙とは実の兄弟のように親しく過していたので、朴正熙について誰よりもよく知っている人だった。 朴正熙は李承晩とは違い、絶対に退かない性格の所有者であった。 そのような朴正熙がこのように言うのは決して口先だけではないということをキム・ジェギュはよく知っていた。 キム・ジェギュは「4・19のような事態は目前に迫っているし、いや釜山ですでに4・19のような事態は起きて」いる切迫した状況で、数千名が犠牲になる流血事態を避けられる道を模索した。 不幸にも大韓民国で最も多くの情報を握っているキム・ジェギュがこの流血事態を防ぐためにできることは、朴正熙を除去すること以外にはなかった。 一切の批判も許容しなかった朴正熙の極端な性格は、自由民主主義と朴正熙とを両立不能な間柄にしてしまった。

 流血事態が差し迫ったことを感知したキム・ジェギュは強く苛立ち切迫した状況に置かれることになった。 キム・ジェギュが今日片づけると言った時、彼の部下には選択の余地がなかったように、10月26日午後にチャ・ジチョルから晩餐を準備しろとの通知を受けた時、キム・ジェギュにも選択の余地はなかった。 1976年12月中央情報部長になった以後、キム・ジェギュは‘順理的な方法’で問題を解いてみようと色々な建議を上げたことがある。 キム・ジェギュは1977年には朴正熙に直選制を行っても難なく当選できるので改憲しようと建議したりもしたし、1979年には悪名高い緊急措置9号を解除するために緊急措置9号の実効性が下がったという名分で緊急措置10号を建議したが、やはり受け入れられなかった。 金泳三が1979年5月の全党大会で当選できたことも、キム・ジェギュが軟禁中の金大中の外出に目をつぶり金大中が金泳三側の団結大会に参加できるようにしたためだ。 キム・ジェギュとしてはそれなりに最善を尽くして極限状況を避けるために努力したが、すべての方法は失敗に帰した。 流血惨劇の可能性は門外まで迫って来ていたし、新聞紙上には政府与党の要職改編説が議論されており、政界には次の中央情報部長に法務長官キム・チヨルや内務長官ク・ジャチュンの名前が議論されていた。 中央情報部長の座から退くことになるということは、差し迫った流血事態を防ぐ機会を失うことを意味した。

 その日は26日だったが、朴正熙には当時大流行していたイ・ヨンの歌のように10月の最後の夜だった。 宴会の雰囲気は重かった。 宴会に呼んできた歌手シム・スボンが‘クテ クサラム(その時その人)’を歌っても、秘書室長キム・ゲウォンが熱心に話題を変えても、朴正熙は新民党の話を繰り返し持ち出し、キム・ジェギュに「情報部はもうちょっと恐くならなくちゃ、あんたらは(新民党議員らの)非行調査書だけ握りしめていてどうするんだ。 もっとガチガチと立件しなくちゃ」と不愉快な話をしまくった。 チャ・ジチョルは 「デモ隊が度を越してやれば、戦車を動員しても、もっと強圧的に押さなければなりません」と朴正熙の機嫌を取った。

 パク・ソンホから準備が完了したという報告を受けた直後の午後7時40分頃、キム・ジェギュは隣席に座ったキム・ゲウォンをパンッと打ちながら 「閣下にちゃんとお仕えしなさい」と言い、拳銃を取り出しチャ・ジチョルに「このうじ虫め…」といい放ち一発撃った。 キム・ジェギュが朴正熙の前にチャ・ジチョルを撃ったのは、彼が銃を持っているだろうと考え、先に制圧するためだった。 チャ・ジチョルは首都警備司令部の強大な武力を警護室の統制下に置いたが、実際決定的な瞬間には拳銃一丁も持ってはいなかった。 キム・ジェギュが銃を抜いて少し迷ったためかチャ・ジチョルは腕で防御姿勢を取り、キム・ジェギュが撃った弾丸はチャ・ジチョルの上げた手首に当たった。 自分だけが朴正熙を護れると威張っていたチャ・ジチョルは血を流し便所に逃げ込んだ。 キム・ジェギュはチャ・ジチョルを追いかけて行く風にゆっくり立ち上がり前に座っていた朴正熙の胸に向けて銃を発射した。 自由民主主義の回復という大義のために朴正熙との個人的な義理という小義を断って 「野獣の気持ちで維新の心臓」を撃ったのだ。 キム・ジェギュが朴正熙に向かって再び引き金を引いたが弾丸は出なかった。 キム・ジェギュは外に出てパク・ソンホの銃を奪い、再び部屋に戻った。 彼は警護員を呼び便所から出て来るチャ・ジチョルに一発を発射し、食卓に倒れている朴正熙に近付いた。 50センチの距離からキム・ジェギュは朴正熙の後頭部に再び一発撃った。

パク・ソンホ、実の兄弟のようなチョン・インヒョンをなぎ倒す

 室内でキム・ジェギュが最初の一発を撃った時、警護処長チョン・インヒョンと副処長のアン・ジェソンはパク・ソンホと共に控室でTVを見ていた。 海兵隊同期であるチョン・インヒョンとパク・ソンホは休暇旅行に一緒に行くまたとない親友であった。 状況を予測していたパク・ソンホは銃声とともに先に銃を取り出した。 パク・ソンホは「動くな!」と大声を張り上げチョン・インヒョンに「俺たちと一緒に生きよう」と哀願調で言った。 国家代表射撃選手出身で速射に長けていたアン・ジェソンが銃を抜こうとするやパク・ソンホの銃が火を噴き、チョン・インヒョンも銃を抜こうとしたのでパク・ソンホの銃が再び友人をなぎ倒した。 キム・ジェギュはその直後に外に出てきて、その銃を持って行き朴正熙を再び撃ったのだ。

 キム・ジェギュの計画はここまでは奇跡的に的中した。 キム・ジェギュは獄中で書いた<修養録>で、警護要員の射撃実力から見る時、自身が朴正熙の殺害に成功しても「死ぬ可能性を90パーセント」と見ていたが奇跡的に死なずに済んだと告白した。 キム・ジェギュは自身の行動を民主救国革命と主張したが、多くの同志たちと十分な討論を通じて綿密な計画を準備した革命ではなかった。 10・26事件は最も近い腹心にさえ30分前に行動指針を通報したことから分かるように、キム・ジェギュが初めであり終わりでもある単独挙事であった。 キム・ジェギュはヒットラーを暗殺しようとしたドイツの神学者ボンヘッファーとともに‘狂った運転手’朴正熙の暴走を中断させることを課題とした。 キム・ジェギュは群衆に向かって突進する狂った自動車の暴走をひとまず立ち止らせることには成功した。 昨日まで維新だけが生きる道と叫んだ者たちも維新憲法を直さなければならないということにあえて文句をつけることはできなかった。 緊急措置は解除され、それによる多くの拘束者たちは釈放された。

 宮井洞を抜け出したキム・ジェギュは陸軍参謀総長チョン・スンファとともに車に乗って、南山(ナムサン)の中央情報部に行こうとしたが龍山(ヨンサン)の陸軍本部に方向を変えた。 キム・ジェギュの‘民主救国革命’が失敗に帰する致命的な別れ目だった。 キム・ジェギュは朴正熙さえ除去すれば、すなわち維新体制は崩壊すると安易に判断し、自身が構想した民主救国革命の指揮所をどこに置くのかさえ構想できていなかったのだ。 キム・ジェギュは弁護人らが作成した‘控訴理由書’を補充するために自身が直接書いた‘控訴理由書補充書’で "本人が決行した民主回復のための革命は完全に成功" し "10・26以後、維新体制は完全に崩れ、自由民主主義は回復" されたと主張したが、不幸にも朴正熙の除去が維新体制の崩壊を意味することではなかった。 朴正熙が育てた嶺南(ヨンナム)軍閥の核心である全斗煥と盧泰愚は、大統領府警護室作戦次長補と行政次長補を務めていた。 朴正熙に続き朴正熙なき朴正熙体制を導いていった者は朴正熙の近衛将校だった。 キム・ジェギュが実兄のように過した朴正熙の命と自身の命を投げ捨てて防いでみようとした流血惨劇は、数ヶ月後送りされただけだった。

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/05/10 20:05
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/586911.html 訳J.S(7554字)

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