登録 : 2013.04.27 14:33 修正 : 2013.04.27 21:20

それはキム・ジェギュの最後の忠誠だった

キム・ヒョンウク(左)は中央情報部長時期、朴正熙(右)前大統領のために活躍した。 しかし維新の翌年である1973年、米国に亡命し、1977年‘フレーザー聴聞会’に出てきて朴政権に不利な証言を相次ぎ行ない‘維新 公共の敵 1号’になった。 写真は1963年国家再建最高会議時期のものだ。 <ハンギョレ>資料写真

朴正熙に泥水を浴びせた
キム・ヒョンウクの凄じい証言
懐柔しようとしたが後頭部を殴られた中央情報部
キム・ジェギュの意味深長な一言
"そいつはちょっと懲らしめなければ"

キム・ジェギュはイ・サンヨルにやらせ
イ・サンヨルはシン・ヒョンジンにやらせた
シン・ヒョンジンは山上の法堂に立って
何度もお辞儀をし
キム・ヒョンウクの極楽往生を祈ったが
殺害場所は最後まで隠し通した

 1979年10月16日朝<朝鮮日報>は1面に3段組の大きくない記事で "米国居住民キム・ヒョンウク前中央情報部長がフランス旅行中、1週間にわたり行方不明" と報道した。 キム・ヒョンウク、‘空飛ぶ豚カツ’ ‘恐怖の三枚肉’等のニックネームを得る程に朴正熙執権18年の3分の1を超える長きにわたり中央情報部長として朴正熙のための悪役(これについては<ハンギョレ21>(‘石頭’で朴正熙を打ちつける’、2005年6月7日 第562号参照)を務めた彼であった。 維新翌年の1973年密かに米国に亡命した彼は、1977年6月米国下院国際関係小委員会のいわゆるフレーザー聴聞会に出てきて朴正熙政権に不利な証言を相次ぎ行なった。 そのためにキム・ヒョンウクは維新体制の公共の敵1号となって、反逆者、変節者、ゴミなどあらゆる非難を受けただけでなく、1977年末には彼を断罪するために‘反国家行為者の処罰に関する特別措置法’が制定(1996年憲法裁判所 違憲決定)されもした。 そんなキム・ヒョンウクが突然いなくなった。 彼の失踪をめぐり各種のシナリオが乱舞する程にすべての人が関心を持ったが、実際に彼の死を悲しんだ人は家族以外には殆どいなかった。 誰も悲しまなかった死、波瀾万丈ではあったが本当に悲しい人生だった。

朴正熙の女性問題まで暴露するつもりだったか

 キム・ヒョンウクの存在が浮び上がったのは1976年10月24日<ワシントン ポスト>が、韓国政府がロビイスト パク・トンソンを通じて米国の役人たちに数百万ドルをわいろとして提供したと暴露してからだった。 いわゆる‘コリアゲート’. 事件が始まった直後の11月末、対外的には駐米韓国大使観の参事官だったが実質的には中央情報部の米国活動組織副責任者であったキム・サングンが米国に亡命する事件が起こった。 キム・サングンはかつてキム・ヒョンウクの秘書であり、亡命過程でもキム・ヒョンウクの助けを受けた。 朴正熙の下で最も良い官運を誇ったという中央情報部長シン・ジクスはキム・サングンの亡命のために1976年12月4日、中央情報部長の席から退かなければならなかった。 シン・ジクスの後任がキム・ジェギュであった。 キム・ジェギュの最初の任務はキム・ヒョンウクを帰国させることだった。 1977年1月17日付でキム・ジェギュはキム・ヒョンウクに丁重に礼を尽くした手紙を送り帰国を勧めた。

 維新政権によるキム・ヒョンウク帰国工作は、1977年6月6日と7日の2日間にかけて<ニューヨーク タイムズ>がキム・ヒョンウクとの独占インタビュー内容を特筆大書したことによって水泡に帰した。 この記者会見でキム・ヒョンウクは、パク・トンソンを活用した工作について詳しく暴露し、朴正熙は下野しなければならないと主張した。 だが、これは予告篇に過ぎなかった。 キム・ヒョンウクが6月22日米下院国際関係小委員会であるフレーザー聴聞会にも出て行き、「朴正熙氏個人に対し、たとえ人間的な背信者になることを甘受してでも、国民と歴史の前に背信者になることはできないと信じるに至った」と明らかにした。

 キム・ヒョンウクの証言は確実に朴正熙に泥水を浴びせ、忘れがたい恥辱を抱かせたことには違いなかったが、朴正熙政権を倒すには何かが不足していた。 証言を終えたキム・ヒョンウクが1977年6月末に着手し、失踪直前の1979年9月末に完成するまで没頭したことは回顧録の作成だった。キム・ヒョンウクは聴聞会で朴正熙の女性関係をはじめ重要ないくつかの問題には言及しなかった。 それで人々は回顧録に一層注目し、フレーザー議員はキム・ヒョンウクが自身が知っている事実を十分に述べなかったと考え、彼を圧迫するための手段としてキム・ヒョンウクが米国に引き出した2千万ドル以上の莫大な財産問題を持ち出した。 1977年7月11日フレーザー聴聞会で2次証言を終えたキム・ヒョンウクは7月15日‘国民と歴史の前に懺悔します’という題名の特別声明書を発表した。 彼は自身が「朴正熙氏を人間的に卑下させる個人的不徳を強く自制」してきたとして、長期にわたり情報機関の責任者であった自身は「朴正熙氏に対し皆さんが想像される以上に多くのことを知って」いると強調した。 キム・ヒョンウクは「朴正熙氏が幼稚な方法で私を中傷し続けるならば、それを天下に暴露する」として維新政権を脅迫した。

 朴正熙は落ちつきを失った。 朴正熙は中央情報部海外担当次長であったユン・イルギュンに直接電話をかけて「君、米国にちょっと行って来い」と言ったという。 ユン・イルギュンが準備ができ次第行くと言うと、朴正熙は「ダメだ、直ちに行け」と急がせた。 米国に飛んだユン・イルギュンは拳銃を取り出してテーブルに置いたキム・ヒョンウクを相手に三昼夜かけて説得しコピー用紙2千枚分の膨大な回顧録原稿を受け取ることに成功した。 その代価として米国通貨50万ドルを提供してキム・ヒョンウクの旅券問題を解決してやることにした。 回顧録の出版を中断させるために朴正熙が送った特使として7~8人目に該るというユン・イルギュンがついに成果を上げたわけだ。

大西洋上空 投擲説から養鶏場粉砕説まで

 キム・ヒョンウクは二重プレーをしていた。 キム・ヒョンウクは日本の有名な出版社である講談社でも回顧録の出版を準備していたが、韓国政府が講談社に他の利権を与えて出版を阻止したという。 ところが1979年4月‘窓’という小さな出版社が<権力と陰謀>というタイトルでキム・ヒョンウク回顧録の縮約版を出した。 維新政権が後頭部を殴られたのだ。 チョ・カプジェは元海軍参謀総長イ・ヨンウンがキム・ジェギュとキム・ヒョンウクの間で回顧録の出版を阻止する交渉を担当したと書いている。 イ・ヨンウンは1975年1月、日本<共同通信>との会見で6・25は南への侵略ではなく北への侵略だと発言し大きな波紋を起こした経緯のある人物だった。 キム・ジェギュはキム・ヒョンウクが要求した150万ドルを与え、差し押さえ中のキム・ヒョンウクの国内不動産を解除し、旅券問題も解決する代価としてイ・ヨンウンが原本であることを確認した原稿を受け取ることにしたという。 これは1979年9月のことだった。 キム・ジェギュは少し後にイ・ヨンウンに電話して、キム・ヒョンウクの旅券をニューヨーク総領事館に預けてあるので訪ねて行くように話した。 イ・ヨンウンがキム・ヒョンウクにこのことを伝えるや、キム・ヒョンウクは「ニューヨーク総領事館は治外法権地帯だが、私がもし旅券を受け取りに行って拉致でもされたらどうしますか?」として旅券を幹部級職員が直接持ってくることを要求した。 これを伝え聞いたキム・ジェギュは今までの約束は全て取り消すと受話器に向かって怒鳴り、一言付け加えたという。 「キム・ヒョンウク、そいつはちょっと懲らしめなければ」

 朴正熙が死ぬ20日ほど前にキム・ヒョンウクは死んだ。 多様な説が提起された。 ‘国内強制連行後殺害’説と‘フランス現地殺害’説に大別された。 国内説には国内に拉致してきて大西洋上空で海に落としたとか、廃車場で圧殺したとか、大統領府地下射撃場で朴正熙が直接撃ち殺したという主張があり、フランス現地説には駐フランス大使館の地下室で殺害した、殺人請負業者が殺害しオワーズ川で水葬した、パリ近郊の養鶏場で殺害して死体を鶏餌粉砕機で処理した(キム・ギヨン監督の映画<火女>の方式!)、中央情報部要員がパリ郊外で殺害した等々があった。 現金目当ての犯罪という説もあったし、北側が拉致して行ったという説もあったし、本人が潜伏したという主張もあわせて提起された。

 2004年11月にスタートした国家情報院過去事委員会は、キム・ヒョンウク失踪事件を7大優先糾明事件の一つに選定した。 当時、国家情報院側幹事を務めたキム・マンボク企画調査室長は事件解決に自信を持っていた。 キム・ヒョンウクが中央情報部長キム・ジェギュの指示によりフランスで研修中の中央情報部要員らによって拉致殺害されたというのは情報部内で公然の秘密であったということだ。 キム・マンボク室長はその研修生らが誰なのかを知っていたし、すでに彼らに対する説得作業を進行中だった。 彼らは相当程度まで事件の真相を打ち明けた。 問題は関連者らが事件当時、彼らに‘課題’を直接付与したフランス駐在中央情報部組織の拠点長である前フランス公使イ・サンヨルの存在を依然として負担と感じていたという点だった。

 イ・サンヨルはキム・ジェギュとは格別の間柄であった。 キム・ジェギュが3師団副師団長を務めていた時にイ・サンヨルが副官であったし、キム・ジェギュが保安司令官を務めた時に保安司に勤務しており、キム・ジェギュの弟キム・ハン・ギュとは若い頃から親しい友人であった。 キム・ジェギュが建設部長官として中東建設にまい進している時、イ・サンヨルはサウジアラビア大使館の参事官と公使を務めた。 イ・サンヨルの人生で転機になったのは、1965年のウォン・ジュンヨン反革命事件を告発したことだった。 朴正熙執権初期には軍部内で数多くの‘反革命事件’が発生したが、全て朴正熙が反対派を除去するために捏造したものであり、唯一ウォン・ジュンヨン事件だけが実際に兵力を動員して朴正熙を除去しようとした実体のある事件だった。 ウォン・ジュンヨンらの裁判にイ・サンヨルが証人として出てくるや、被告人らが席からむくっと立ち上がり「こいつは裏切り者だ!」「犬××めが」などの悪口を浴びせ公判場は騒然としたという。

 1979年9月イ・サンヨルは中央情報部職員としてフランスに研修に行っていた5~6人の留学生を自宅に招いた。 イ・サンヨルは「この頃の若い人は覇気もなくどうも気に入らない」と彼らを刺激しつつ、パリ駐在の北韓通商代表部に関する情報を収集してくるよう指示した。 研修を終えて帰国を控えていたシン・ヒョンジン(仮名)は「俺たちのような駆け出しはそうかもしれないが、公使クラスは覇気がなければ国家に問題があり得る」として軽く受け流したが、北韓通商代表部については他の留学生たちに比べて詳細な報告書を作成し提出した。 シン・ヒョンジンの大胆さと業務推進力に注視したためなのか、イ・サンヨルはシン・ヒョンジンを別に呼んで特に付与する任務が一つあるのだが、「一度君に任務を伝達したら君には選択の余地がない。 このことは君でなければやれる人がいない」と雰囲気を作った。 イ・サンヨルは「部長さんから(キム・ヒョンウク殺害の)指示を受けたが、君が積極的にやって欲しい」として任務を付与し、シン・ヒョンジンはキム・ヒョンウクを処置するという意味で 「送ります」と答えたという。 シン・ヒョンジンは 「普段から気質が合って身近に過ごしていた後輩の研修生イ・マンス(仮名)」を補助の役割にしようと目星をつけた。 シン・ヒョンジンは国家情報院過去事委員会との面談で、キム・ヒョンウク殺害の実行は語学研修過程で知り合いになった第3国人(東ヨーロッパ)の友人2人に10万ドルを与えて実行させたと述べた。

 キム・ヒョンウクがパリで最後の姿を見せたのは1979年10月7日だった。 イ・サンヨルはその日の午後、シン・ヒョンジンを急いで呼び、キム・ヒョンウクから金を貸して欲しいという電話が来たのでまもなく会うことにしたので、今日処置しろとの指示を与えた。 シン・ヒョンジンはイ・サンヨルを助手席に乗せてイ・サンヨルの官用車(プジョー604)を自ら運転した。 シン・ヒョンジンはイ・マンスらを呼んで10万ドルが入った金カバンを持って他所で待機させた後、第3国人の友人2人を後部座席に乗せてキム・ヒョンウクに会いにある場所に行った。 イ・サンヨルはキム・ヒョンウクに、運転しているのは自分が目をかけている中央情報部研修生で、後部座席の二人は金を貸してくれることになる人間だから、どこか近くのカフェにでも行って話をしてみろと言って、自身夕食の約束があるからと言って現場を離脱した。 キム・ヒョンウクはイ・サンヨルの代わりに助手席に座り、車は凱旋門前のロータリーを右に回って外郭循環道路を越えて暗くなったパリ市内を抜け出して走った。 シン・ヒョンジンによれば、後部座席に座っていた第3国人の友人が突然キム・ヒョンウクの後頭部を攻撃し失神させた後、パリ郊外の人里離れた小さな森で第3国人の友人2人が車から降り助手席で失神しているキム・ヒョンウクの両腕を掴んで車から引きずり下ろし、右側の林の中へ引っ張って降りて行った後 30分ほどして帰ってきたという。 彼らはシン・ヒョンジンにキム・ヒョンウクの所持品をバーバリーコートに包んで渡しながら、キム・ヒョンウクを道路から約50m離れた場所で、シン・ヒョンジンから受け取った消音拳銃を頭に撃ち、殺して土を深く掘らずに厚く積まれていた落葉で覆ってきたと話した。

研修生が受け取った300万ウォンの封筒の意味

 シン・ヒョンジンは10月10日、イ・マンスは10月11日にそれぞれ帰国した。 シン・ヒョンジンは3年半の研修が終わって帰国する時になったが、イ・マンスは2年計画で研修に発って3ヶ月にしかならない状態だった。 シン・ヒョンジンは研修を終えて帰国した数人と共に中央情報部長キム・ジェギュに帰国申告をしたが、‘雲の上の部長’キム・ジェギュが‘全くの駆け出し’シン・ヒョンジンに「シン君、君ちょっと俺の部屋に来い!」 と言ったので、人々は 「どうして部長が研修生を知っているのか」と非常に驚いた。 数日後の10月16日、キム・ヒョンウク失踪事件が報道されると中央情報部職員の間ではシン・ヒョンジンとイ・マンスがキム・ヒョンウク事件と関連があるという説が広まることになったという。 シン・ヒョンジンによれば、部長にキム・ヒョンウクの処理結果を報告すると、キム・ジェギュは 「ご苦労だった。よくやった。 我々がああいう奴を放っておくなら、我々の組織は何のためにあるのか?」と言って「現金300万ウォンと20万ウォンが入った封筒をそれぞれ2ヶずつくれ、その内1ヶずつ」はイ・マンスにくれてやった。 キム・ジェギュはシン・ヒョンジンに勤めたいところとか家族関係、生活状態など事細かく訊いて、今後妻をめとれば暮らせるくらいの新居を40~50坪台のアパートで探して電話しろと言い、番号を別に書いてくれたと言う。

 これがシン・ヒョンジンが伝えたキム・ヒョンウクの最期で、国家情報院過去事委員会もこれ以上は明らかにできなかった。 過去事委員会はキム・ジェギュ-イ・サンヨル-シン・ヒョンジンにつながるキム・ヒョンウク殺害体系は間違いないと見たが、最後の段階でキム・ヒョンウク殺害に第3国人2人が動員されたというシン・ヒョンジンの陳述には信憑性がないと見た。 キム・ジェギュは、海外担当次長-次長補-担当局長-フランス拠点長-派遣要員とつながる公式ラインを通じずに、自身と親密な関係にあったイ・サンヨルに直接指示し、イ・サンヨルは一部派遣要員の助けを受けはしたが核心課題はシン・ヒョンジンに直接指示して処理した。 イ・サンヨルは過去事委員会との面談で自身の介入事実自体は認めたが、具体的な内容については‘私の面談調査はノー(No)と記録してほしい’と言うほど徹底的に口を閉ざした。 当時、シン・ヒョンジン、イ・マンスと直接面談した国家情報院過去事委員会の国家情報院側幹部は、イ・サンヨルが生きている限りシン・ヒョンジンとイ・マンスもこれ以上の陳述はしないだろうと見た。 イ・サンヨルは最後まで口を開かずに2006年4月3日に死亡した。 シン・ヒョンジンは山に登って寺が見えれば、無意識に法堂の前へ行き、果てしなくお辞儀をしてキム・ヒョンウクの極楽往生を祈ったと言うが、最後までキム・ヒョンウクを殺害した場所については明らかにしなかった。

 キム・ヒョンウクは1977年10月21日、フレーザー聴聞会に再び立った時、韓国歴史に日本に亡命して中国の上海で殺害されたキム・オクキュンという政治家がいた事実を想起させた。 彼はまた、1977年7月15日付の声明書で、自身が朴正熙に対抗したことを「ローマを救援するためにシーザーを殺したブルータスの果敢な勇気を選んだこと」に比喩した。 不幸にもキム・ヒョンウクはキム・オクキュンでもブルータスでもなかった。 朴正熙のブルータスは別にいた。 すなわちキム・ヒョンウクを殺害しろとの指示を与えたキム・ジェギュその人であった。 キム・ジェギュは朴正熙の祭壇に捧げるお供えにキム・ヒョンウクを準備した。 それが朴正熙に対するキム・ジェギュの最後の忠誠だった。

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/04/26 22:54
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/584787.html 訳J.S(7418字)

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