登録 : 2013.04.13 22:05 修正 : 2013.04.13 22:26

イ・チョルスンの新民党舎? 座り込みに行くこともなかっただろう

1979年8月11日午前2時、YH貿易の女性労働者たちが座り込み中の新民党舎に警察1000人余りが押しかけた。 警察は金泳三当時新民党総裁を党舎から強制的に引きずり出して家に送った。 この日朝、党舎に戻った彼は党国会議員全員と座り込みを始めた。 この事件で金泳三は韓国現代史の中心に浮上した。 <ハンギョレ>資料写真

警察1000人が23分で鎮圧
22才のキム・ギョンスクが命を失った後
維新体制下の司法府は世にもまれな
仮処分申請を受け入れた
金泳三(キム・ヨンサム)は総裁から追われ
後には議員職まで奪われた

1975年、朴正熙との会談直後
金泳三はふらつくかに見えた
それでも多くの荊の道を越えて
維新反対の一筋の道を歩いた
YH事件は彼の最も光った瞬間だった

 女性労働者たちが野党の事務所に飛び込み、YH貿易事件は個別の会社の労使問題ではなく政局の雷管になった。 この衝撃波を吸収するには維新体制はあまりにも硬直していた。 女性労働者たちが新民党舎に入って満24時間経った8月10日午前、大統領府で開かれた高位級対策会議は迅速な強制解散を決めた。 警察内部では女工200人に党員と党役員まで合わせれば、一食のソルロンタン代金だけでも100万ウォンになるので、金のない新民党が黙っていても送りだすだろうに強いて引きずり出す必要がどこにあるかという意見が優勢だった。 しかし、そのような慎重論はまもなく強硬論によって埋められてしまった。 中央情報部長キム・ジェギュが強制鎮圧を主張したというが、‘副閣下’と呼ばれた警護室長チャ・ジチョルは更に強硬な立場だった。 新民党議員の一部は党舎の向い側のガーデンホテルに部屋をとり、座り込み現場の動きだけでなく新民党幹部会議の内容までチャ・ジチョルに熱心に報告していたという。

 警察による強制鎮圧の動きが表面化するや、女性労働者たちは8月10日夜10時40分に緊急決死総会を開き、警察が進入すれば全員で身を投げるという決議文を採択した。 興奮した女性たちは窓枠にぶらさがり身を投げると泣き叫びもした。 計8人が失神して病院に移送されたが、ハキハキした声で決議文を朗読した労組組織部次長キム・ギョンスクはすぐに正気を取り戻し座り込み場に残った。 現場の状況が急迫しているという報告を受けた金泳三は急いで4階に上がってきて「君たちは決して恐れることはない。 私の正義の手で君たちを守る」という聖書の言葉を引用して彼女たちを慰めた。 金泳三はこれまで警察が野党事務所を襲撃したことはないとし、自身と30人余りの議員が守っているから安心だとして興奮した座り込み者たちを落ち着かせた。 女性労働者たちが寝床につくと金泳三は党舎の正門に降りて行き「女工が興奮しているので全員引き上げろ」と要求した。 警察がこれに応じず小競り合いを行った金泳三は「お前たちは本当にあの女工を飛び降ろさせるつもりか」として麻浦(マポ)署情報課長の横っ面を殴りもした。

キム・ギョンスクは本当に投身自殺で死んだのか

 午前2時、自動車のクラクションが3回長く鳴るのを合図に警察官1千人余りが動員された鎮圧作戦が始まった。 私服組がいちはやく4階講堂の窓側を封じ込め、女性労働者の投身を防ぐ間に、4人1組の戦闘警察は座り込み中の女性労働者を一人ずつ引きずり出して鳥小屋車15台に乗せてソウル市内の警察署7ヶ所に分散して受け入れた。 鎮圧作戦は23分しかかからなかったが、極めて暴力的だった。 新民党スポークスマンのパク・クォンフム議員は「俺はスポークスマンだ」と叫び、私服らに「そうか、スポークスマンか」としてボコボコに踏みつけられた。 彼は鼻骨が陥没し肋骨が折れる重傷を負った。 この過程で女性労働者1人が命を失った。 失神して背負われて行ったが、すぐに正気を取り戻して座り込み場に残った22才のキム・ギョンスクだった。 キム・ギョンスクは「混濁したホコリの中でブルンブルンと唸る機械音を聞きながら、いつのまにか8年間過したが残ったものは病気しかない。 たとえ身は病気にかかっても、心は傷つかずに人間として正しい生活を送ると確約」したが、その確約を守ることはできなかった。 警察はキム・ギョンスクが動脈を切って投身自殺したと発表した。 しかし2007年真実和解委員会はキム・ギョンスクの解剖検査報告書と死体写真を根拠に手首には動脈を切った跡がなく、手の甲にはこん棒のような丸い物体で一撃された傷が発見されたと発表した。 金泳三によれば、YHの女性労働者たちに食事を運んだ近所の食堂の女性従業員が、とうとう深夜に警察に犬のように引きずられて行く彼女たちの姿に衝撃を受けて命を絶つ悲劇的な事件もあったという。

 警察によって自宅に引きずられて行った金泳三は、朝早く党舎に戻り、党舎の正面に「夜が深いほど明け方が近い」と書いた大型プラカードを掲げ、女性労働者たちが連行されていったまさにその場所で党所属の国会議員全員と共に座り込みに入った。

 新民党が座り込みに入り3日目の8月13日、新民党の院外地区党委員長であるチョ・イルファン、ユン・ワンジュン、ユ・ギジュンの3人が総裁団の職務執行停止仮処分申請をソウル民事地裁に提出した。 彼らによれば新民党城北(ソンブク)地区党委員長チョ・ユンヒョンと全党大会副議長キム・ハンス、チョ・ユンヒョンが任命した城北地区党代議員5人など計7人の代議員資格を認定できないので、1979年5月30日の全党大会で過半数をかろうじて2票上回り当選した金泳三の総裁選出は無効という主張だった。 金泳三とことごとに対立した非主流の内部でも、彼らの仮処分申請を‘頭がおかしくなった’と非難する立場もあったが、実際に審理が始まると雰囲気は尋常でなくなった。 全党大会直後の6月5日、チョ・ガヨンという者が中央選挙管理委員会にチョ・ユンヒョンとキム・ハンスの2人の党員資格に対する担当責任解釈を依頼し、彼らには党員資格がないという決定を受け取った経緯があった。 チョ・ガヨンは過去に新民党西大門(ソデムン)地区党副委員長を務めたことがあるが、党を離れて久しい人物だった。 無記名秘密投票で進行された全党大会で、問題とされた代議員が必ずしも金泳三に投票したと見ることもできず、過去の選挙または当選無効判決などで議員職を辞めた人々が、在職中に行使した表決は有効だという判例に照らしてみる時、総裁職務停止仮処分申請は真に話にならないことだった。

 しかし維新体制下の司法府はこの仮処分申請を受け入れた。 9月8日ソウル民事地方裁判所合議16部チョ・オン部長判事は金泳三の総裁職務を停止させ、全党大会議長チョン・ウンガプを総裁職務権限代行に選任した。 チョ・ユンヒョンとキム・ハンスは8代国会議員であり、維新クーデターで投獄され実刑判決を受けた事実のために国会議員選挙権がなく政党員の資格がないとしたが、これはあたかも労働組合で解雇者の組合員資格を認めないかのような性格の問題であった。 しかし彼らは1978年の国会議員選挙で投票もし、チョ・ユンヒョンは1976年全党大会時には金泳三に反対しイ・チョルスン側に立って投票した経緯があった。 そのために人々は維新体制に協調的なイ・チョルスンに投票すれば有効で、鮮明野党を標ぼうする金泳三に投票すれば無効ということは法の暴力だとして非難した。 大統領府と中央情報部の積極的な支援を受けたチョン・ウンガプは総裁職務権限代行の役割を遂行しようとし、新民党には政治的総裁と法的総裁が別々に存在するという奇形的な姿が演出された。 以下に詳しく見て回るが理性を喪失した維新政権は金泳三の議員職まで剥奪してしまった。

金泳三、母親を左翼の凶弾で失う

 金泳三が8月9日朝、格別の考えもなくYH女工の新民党舎進入を許容した時も、彼はことがこれほど大きくなるとは想像もできなかった。 高銀(コ・ウン)詩人は金泳三が「直感以上の決断でYH労働者の新民党講堂座り込みを許容」したと<萬人譜>に書いたが、当人の金泳三は回顧録で、自身は「この時、女工たちが新民党舎を座込み場所として選んだとは思わなかったし、呼び掛けのために訪問したこと程度に考えた」と述会した。 新民党はYH事件について<末期的必死のあがき-新民党舎被襲撃事件とYH事件の真相>というパンフレットを出したが、維新の終末までわずか3ケ月も残っていなかったという事実は夢にも考えられずにいた。 YH女性労働者が座り込み場所を新民党に選んだことによって、金泳三と新民党は韓国現代史の激動の瞬間に中心に浮上した。 しかしこれは単純な偶然とばかりも言えない。 1970年代の新民党の闘争にどの程度の点数を与えるかは観察者ごとに考えが違うだろうが、それでも私はある程度の点数を与えたい。 大統領任期の中盤以後、復元不能水準まで壊れたが、1970年代に若き金泳三が行なった闘争には見るに値する部分が多少はあった。 近くは1978年12月の10代国会議員選挙、遠くは1974年8月の新民党全党大会以後の金泳三は、時には中心軸を失ってふらつきもしたが、それでも維新反対という鮮明な旗を掲げて一筋の道を歩いてきたことは間違いない。

 金泳三は1974年8月の新民党全党大会で47才の若さで総裁に当選した。 韓国の野党史を見れば類稀な若さであった。 シン・イクヒは61才、チョ・ビョンオクは62才、チャン・ミョンは60才、パク・スンチョンは66才、ユン・ボソンも66才、ユ・ジンオは63才、ユ・ジンサンは66才で野党の総裁を務めたので、金泳三の当選で野党が大幅に若がえったことは明らかだった。 朴正熙が維新クーデターを断行した当時、新民党は2つに分かれて争っていた。 時には大蛇、時には王サクラ(訳注:見かけ倒しの意)と呼ばれたユ・ジンサンの死は、好むと好まざるに関わらず韓国の野党史で一つの時代が暮れたことを象徴する事件だった。 ユ・ジンサンの後任を選ぶ新民党全党大会で金泳三が当選すると予想した人は多くなかった。 維新体制との正面対決を回避したのは必ずしもユ・ジンサンだけではなかった。 維新憲法の中選挙区制度により、共和党と仲良く一緒に当選した大多数の新民党議員は、もう少し‘現実的’であり、もう少し妥協的だった。 しかし代議員たちの立場は違った。 彼らは野党らしい野党、政権を批判し牽制して戦う野党を望んだのだ。 5人の候補の中で金泳三が唯一維新政権と真っ向から戦うと主張した。 代議員たちが望んだのは鮮明な野党だった。 "この頃の新民党は野党らしい野党をやっていない" とか "最近では新民党と言うのが恥ずかしく感じられるほど" という代議員たちは、野党性を回復するという金泳三を選択したのだ。 金泳三自身も当選所感で「代議員たちが私を総裁に選んだ意味は、無気力で低迷した野党を再建し国民の真の声を代弁してほしいという絶叫」と話した。

 正統保守野党を標ぼうした新民党の若き総裁は、党外の在野民主勢力と手を握り維新憲法の改正を促しながら全国で改憲推進運動支部懸板式を行い、在野の人々が主軸となった‘民主回復国民会議’にも参加した。 金泳三の疾走に反発したのは党内に広範囲に広がった妥協勢力、すなわち良いものは良いとして維新体制と対抗せずに適当な批判だけをして野党議員生活を楽しんでいた者ばかりではなかった。 予想を覆して金泳三が総裁に当選すると、まもなく維新反対闘争に積極的に取り組むや朴正熙は傷痍軍人らを動員した。 金泳三が維新体制の安保商売に対抗して「北韓による南への侵略脅威はない」と言うと、1974年12月20日光州(クァンジュ)支部懸板式に傷痍軍人が押しかけて暴れまわった。 傷痍軍人300人余りはこの過程で新民党員たちが自分たちを見て‘障害者のバカ騒ぎ’と罵ったとして、12月27日大邱(テグ)支部懸板式参加のために下ってきた金泳三を大邱(テグ)錦湖(クムホ)ホテルに監禁し謝罪を要求した。 1975年3月末、金泳三はチャン・ジュナが献身的に推進した民主勢力統合の流れに参加して、ユン・ボソン、キム・デジュン、ヤン・イルドン(統一党総裁)と4者会談を行い、新民党と統一党の統合に合意した。

 1975年インドシナ半島の状況が深刻に展開すると金泳三の反維新民主化運動のステップが絡まり始めた。 金泳三の母親は1960年拳銃強盗に殺害されたが、捜査の結果、強盗は日本に密航する資金を用意しようとしていた左翼出身者だった。 4月30日南ベトナムの首都サイゴンが共産軍により陥落し、3週後の5月21日には朴正熙と金泳三は与野党トップ会談を行なった。 朴正熙は「金総裁、私は欲心はありません。 妻は共産党の銃に撃たれて亡くなり、こんなお寺のようなところに永くいるつもりはありません。 民主主義をやります。 だから、少しだけ時間を下さい」と頼んだという。 金泳三は「必ず民主主義をやります」という朴正熙の言葉が「今回の任期を最後に退く」という意味に聞こえたと主張した。 彼は「非業の死を遂げた妻の話を持ち出して涙を見せ、人生の空しさを打ち明けた」朴正熙の話をひとまず信じて受け入れることにしたと回顧した。 良く言えば、夫人を左翼の凶弾で失った大統領と、母親を左翼の凶弾で失った野党総裁の間に国家の安保危機状況で何らかの共感が形成されたことに、もう少し冷静に言えば老獪な独裁者 朴正熙が3年後の1978年に退くと言って、その後はあなたの番という暗示を与えたことに、純真な金泳三がだまされてしまったことになり、疑いの度を高めれば両者に何らかの黙契があったのではないかと考えてみることもできる情況だった。

チャ・ジチョルがキム・テチョンを動員した‘角材全党大会’

 党首会談以後、金泳三が反維新民主化運動から手を引くと彼の立場も萎縮し始めた。 維新体制に積極的に対抗しろとして彼を支持した底辺の野党勢力は、金泳三を支持する理由を喪失した。 特に1975年10月8日キム・オクソン議員がインドシナ事態以後の安保決起大会を官製デモだと批判し、与党が超強硬な除名脅迫をした時 金泳三は党内で自身の強硬路線を積極的に後押ししたキム・オクソンを保護できなかった。 キム・オクソンが涙を流して議員職を辞退した時、最も深い傷を負ったのは金泳三だった。 鮮明野党の旗が折れると1976年5月の全党大会では‘安保至上主義と自由至上主義の間の中道統合論’を掲げたイ・チョルスンが金泳三を破り代表最高委員に当選した。 この全党大会は金泳三を落選させるために大統領府警護室長チャ・ジチョルが「人さえ殺さなければ絶対に服役させないから安心してやれ」として、キム・テチョンなどの腕力輩を動員して‘角材大会’になった。

 新民党の党首になったイ・チョルスンは、確実に朴正熙の望み通りに行動した。 彼は、国外同胞の反政府活動は「結果的に北韓の統一戦線戦略を助けることになる」とか、「韓国の自由問題は有無の問題ではなく‘レベル’の問題」、「野党は国家保安法を廃棄する用意がない」等などの発言を吐き出した。 このような新民党に対して、党外からは維新党、第2の維新政友会などの非難と嘲弄が浴びせられ、党内では‘野党性回復闘争同志会’が結成されもした。 1978年12月12日に実施された10代国会議員選挙では誰も予想できない結果がもたらされた。 共和党が31.2%に終わった反面、新民党32.3%で野党の新民党が共和党より得票率で1.1%上回ったのだ。 これは新民党がよくやったからではなかった。 それだけ民心が維新体制から離れていたということを意味した。 国民の峻厳な要求に支離滅裂となった鮮明野党勢力が再び結集し始めた。

 傲慢な維新体制は国民の警告を無視した。 1979年3月 10代国会が開会する時、与党側は議長にチャ・ジチョルが積極的に推薦したペク・トゥジンを内定した。 国民と大多数の野党議員は地方区出身ではなく朴正熙が‘任命’する維新政友会所属のペク・トゥジンが国会議長に指名されたことを拭い難い侮辱と見なした。 世論の支持を得た非主流野党議員たちは強硬闘争を主張したが、イ・チョルスンなど党指導部は新民党議員は退場し党指導部だけが残って表決に参加する奇怪な方式でペク・トゥジンの議長就任を容認した。 ペク・トゥジン波動の2ヶ月後である5月30日に挙行された新民党全党大会で、代議員たちは 「いくら夜明けを知らせる鶏の首を捻っても、民主主義の夜明けはそこまで来ている」と叫んだ金泳三を選択した。 「新民党は維新体制に参加しており、維新体制が自由民主主義を否定する体制だと見る見解は大きな間違い」として中道統合論を強調してきたイ・チョルスンが新民党を率いていたなら、YH貿易の女性労働者たちが新民党舎に座り込みの場所を移すことは決してなかっただろう。

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/04/12 20:30
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/582616.html 訳J.S(7135字)

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