登録 : 2013.04.06 17:43 修正 : 2013.04.07 00:55

‘腹をすかせた美しいお嬢さんたちが’死ぬ覚悟をする

1979年8月YH貿易労組の組合員が‘腹がへって死にそうだ 食べ物をください’と書かれた横断幕を掲げ、新民党舎で座り込んでいる。 <ハンギョレ>資料写真

カツラ事業で大金を儲けたYH チャン・ヨンホ
休業、廃業、解雇、外貨逃避
低賃金に苦しめられた女工たちは
鉢巻をしめるや 会社側救社隊 投入前夜
"どうせやられるなら目いっぱいやられよう
声を上げて津々浦々知らせよう
そうすれば奴らも怖気づくだろう"

明け方に風呂にでも行くように
こそこそと小さい桶を持って
寄宿舎を抜け出した187人
ついに新民党舎に集まった
偽装された太平の世の中が揺れた

 1979年8月9日午前9時30分、女性労働者187人が孔徳洞(コンドクトン)ロータリーにある新民党当舎に集まった。 その時、彼女たちの切迫した行動が維新政権を押し倒す激動のドラマを触発するとは誰も思わなかった。 女性労働者が維新独裁打倒や維新憲法撤廃を叫び、維新体制に正面から対抗したわけではなかった。 しかし硬直しきった維新体制は「この国の腹をすかせた美しいお嬢さんたち" (ヤン・ソンウ詩人の表現)の呼び掛けを受け入れられず、野党と教会と労働者全てを敵に回した。 午前2時、修羅場の中で四肢を持たれて引きずられて行った女性労働者たちも、彼らを引きずり出した‘私服’らも、それから二ヶ月半後に朴正熙が頭を銃で撃たれて死ぬとは想像さえできなかった。 1970年代は労働者チョン・テイルの死で始まり、労働者キム・ギョンスクの死で終わった。 YH事件で拘束された詩人コ・ウンは1970年代に始まりと終わりをこのように詠んだ。 "1970年チョン・テイルが死んだ/ 1979年YHキム・ギョンスクが/ 麻浦(マポ)の新民党舎4階座込み場から墜ちて死んだ/ 死で明けて/ 死で閉じられた/ キム・ギョンスクの墓の後に朴正熙の墓がある/ 行ってみろ"

賞与金 高卒管理職 100%、生産職社員 0%

 1960年代末以後、韓国の輸出膨張神話で最も重要なものはカツラだった。 1964年中国が核実験を強行するや米国はこれに対する制裁として中国産製品および原料の輸入を禁止した。 当時ニューヨークの韓国貿易館副館長であったチャン・ヨンホは韓国産カツラが有望だと考え、貿易公社を辞任して足早に往十里(ワンシムニ)に従業員10人の小規模カツラ工場を作った。 チャン・ヨンホは会社の名前は自身の名前を取ってYH貿易とし、副社長には義兄弟のチン・ドンヒを座らせた。 カツラは飛ぶように売れYH貿易は創社4年後の1970年には従業員数が何と4000人を超えていた。 1970年11月30日の輸出の日にチャン・ヨンホは輸出1000万ドルを達成して大宇(デウ)のキム・ウジュンと共に鉄塔産業勲章を受けた。

 1972年の高額個人所得者順位を見れば、チャン・ヨンホは8位、チン・ドンヒは9位を占めており、チャン・ヨンホは1973年には7位に一段階上がった。 要するに熊手で金をかき集めたわけだ。 1968年1月ニューヨークにYHカツラ製品の販売を目的にヨン インターナショナル商社を設立したチャン・ヨンホは、1970年にはチン・ドンヒに社長の席を任せ、自身は家族と共に米国に移民し米国での活動に注力した。 最盛期には高額所得者上位10人中の7人がカツラ業者であるほど繁盛したカツラ産業の最大の障害物は、韓国業者どうしの過当競争だった。 1ヶ当り12ドルしていた商品が4ドルで投げ売りされカツラ産業は急激に下り坂に入った。 YH労働者によれば、目端の利くチャン・ヨンホは海外に引き出した財産で米国にデパート、放送局、ホテルなどを構え、チン・ドンヒは1970年に社員に賞与金として10億ウォン余りを与えたことにして、その金でYH海運を設立したという。

 カツラ産業は代表的な労働集約産業で、チャン・ヨンホらは女性労働者の低賃金と劣悪な勤労条件を土台に莫大な金を稼いだ。 YH労組の委員長だったチェ・スンヨンが1970年に入社した時、労働者の初任給は月2000から2500ウォン程度だったが、寮費が1500ウォン程度で月給の半分を超えていた。 従業員の大多数は農村で国民学校ないしは中学校を終えたばかりでソウルに来た女性たちであったし、企業はこういう幼い女性たちに賃金をまともに与えようとはしなかった。YH労働者の間にも自分たちの境遇を改善するには労働組合が必要だという動きが起き始めた。 当時の女性労働者たちは、それでも労組を結成するには「男がいてこそ、ものごとを迫力をもって推進できる」と考えて、現場で一言言える人を労組準備会に引き込んだ。 それが禍根だった。 よりによって彼は工場長の義理兄弟であり、労組結成の動きを義兄に告げ口した。 主導者4人が解雇される紆余曲折の末、YH貿易に労働組合が設立されたのは1975年5月24日だった。

 1975年12月24日、会社は管理職社員には100パーセントの賞与金を支給したが、生産職社員には一銭も支給しなかった。 女性労働者が賞与金差別に対して抗議すると総務理事は「くやしければ皆さんも管理職として就職して下さい。 …皆さんは国民学校しか出ていないので育てるのに金があまりかからなかったが、管理職は少なくとも高卒以上です。 それを同じく待遇してほしいということが話になりますか?」と答えた。 ‘習えなかったチビ’たちはうらめしくて涙を流した。 それでも労組があり戦ったおかげで、会社創立以来初めて50パーセントの賞与金を勝ち取ることができた。 大韓民国にまだ10ヶにもならない民主労組の威厳だった。 労組ができた後、YHの勤労条件はようやく勤労基準法スレスレであえぐ水準だったが「労働組合が無いところにいた子たちがYHに来れば、‘アー労働者の天国だな’と言った」と言う。 両親が亡くなった時に5日の休暇を要請すれば、会社は「女たちが葬儀にそんなに長くいて何をするのか」と咎めるのが1970年代労働者の素朴な天国だった。

"私たちを淪落街に追いやるな"

 この素朴な天国も常に不安がつきまとっていた。 会社は事あるごとにカツラ産業は斜陽産業であり、仕事がなくなったとか言いながら休業して請負単価も大幅に値切った。 1977年には会社が 「政府当局の施策により、カツラ課を忠北(チュンブク)(沃川郡(オクチョングン))の青山奥地に移転」するという公告を貼り出した。 すぐにも何の縁故もない田舎に行かなければならないという話に、カツラ課従業員の内500人以上が辞表を書いてしまった。 事実、青山は工場が移転できる電気や水道も無く古い倉庫一つだけがぽつんとある所だった。 会社は‘政府施策’のために会社を移転しなければならないと言いながら、500人余りの従業員を解雇手当も払わずに追い出したのだ。 YH労働者の要請文‘政府と銀行は近代化の担い手を淪落街に追いやるな’によれば、このようにして会社を去った人々は 「木枯らしがぴゅうぴゅうと吹き付ける冷たい街頭に、より劣悪な下請工場に、そして少なくない数が女の最後の食べる手段に出て」行った。 会社は斜陽産業になったカツラ部門をこのようにして自動的に閉鎖してしまった。 1970年4000人、1976年2000人だった従業員は、1978年5月になると550人に減った。 奇異なことに1977年YH貿易の輸出額はカツラと縫製、手袋などを合わせて約1600万ドルであり輸出順位は86位と、依然として100大企業の中に入っていたという点だ。 本工場が休業を繰り返し従業員が減りながらもこのような輸出実績を上げることができた秘密は 「会社が本工場は休業させながら、勤労条件がより悪い下請工場から作業物量を引き出した」ためだ。 その間に会社の借金は雪だるまのように増え、1974年6億3000万ウォンだったものが1979年3月には40億5000万ウォンにもなっていた。 このように借金が増えたのは、政府から銀行利子の半分にしかならない輸出特典金融を受け、オリオン電子を買収しセハンカラーの株式40パーセントを買収するなど無理に事業を拡張し経営に失敗したためだ。

 ついに1979年3月30日、会社は「経営不良により事業を継続できず1979年4月30日付で廃業」するという公告文を会社正門に貼り出した。 チャン・ヨンホはYHから15億相当の物品を米国にツケで輸入した後に代金を支払わなかった。 300万ドルの莫大な外貨が海外に引き出されたわけだ。 悪徳企業主の外貨逃避による負担はそっくり低賃金に苦しめられた女性労働者に負わされた。 労働者はナム・ジンの‘あなたと一緒に’(あの青い草原の上に~)の歌詞を変えて「賃金は最低賃金、生産量は超過達成、連勤夜勤全部しても廃業とはなんという事か」と歌を歌った。 労組は会社を正常化するために多角的に努力した。 それでも労働者の側だと思って訪ねて行った北部労働庁では 「資本主義社会では資本を持った者がやりたくないと言えば防ぎようがない」という言葉が返ってくるだけだった。

 廃業撤回を叫んで労働者たちが工場で座り込みを始めると警察は直ちに現場を襲った。 労働者たちは‘サッカーボール’のように蹴られ髪をつかまれ大量に連行された。 やけくそになったからか、その時は投げ飛ばされても痛いとも思わなかったが、150人も負傷した結果、労組が払った薬代だけで当時の金で18万ウォンを越えたという。 労働者たちは翌日再び座り込みを始めた。 労働者は当時の流行歌の歌詞を自分たちの境遇に合わせて歌ったり‘ワイエ(イ)チ’の4文字を頭に持ってきて YHの労働者の実態を訴える文章を作って時間を過ごした。 労働者の団結した姿に政府も会社も一歩後退せざるを得なかった。 4月17日、現場に現れた社長は廃業の撤回を宣言し、労働庁次長パク・チャンギュは自身の電話番号まで書いて労働庁が必ず責任を負うと約束した。 しかし、それは座り込みを解除させようとする一時の方便に過ぎなかった。 5月25日政府は輸出金融を受けていながら輸出義務を履行しなかったYH貿易など29社に対する輸出支援を中断した。 "銀行から見放され、労働庁にだまされて、警察署にもだまされて、会社の無責任のために路上に追い出される状況に至った組合員たち" は、7月30日再び座り込みに入った。 8月6日会社は再び一方的に廃業を公告した。 労組事務長パク・テヨンは組合員の前で熱弁をふるった後 焼身しようとしたが同僚がかろうじて止めさせて、一緒に死を覚悟して戦うことを誓った。

 会社は足早に動いた。 会社側は8月8日朝から電気も切り水も切って、食事の提供も中止すると通知し、8月9日からは寄宿舎を閉鎖し、8月10日までに退職金と解雇手当を受領しなければ裁判所に供託すると通告した。 糞尿事件で東一紡織労組が崩れた後、労働界には警察と資本と繊維労組本部がグルになって、それでYH労組をつぶすという噂が広まっていた。 寄宿舎閉鎖と退職金供託は‘会社救社隊’投入が差し迫ったということを意味した。 コ・ウン詩人が "おだやかさは冷ましたおこげ湯のようで、猛烈さは鍛冶屋で打ったばかりの熱い鎌や鍬" のようだと詠った労組委員長チェ・スンヨンは "私たちがどうせやられるなら目一杯やられよう。 大声を上げよう、全国津々浦々に知らせよう。 そして他の労働者を保護しよう。 民主労組がつぶされても、被害を与えてこそ奴らも怖気づくのではないか" と決心した。妊娠6ヶ月だったので決して容易な決断ではなかった。 座り込みを始めて労働者たちは自ら歩いて出ていきはしまいと決議したが、会社救社隊に一方的に引きずられて行き、新聞には一行も載らないそのようなけんかはできなかった。 戦いを継続するには座込み場を移さなければならなかった。 労働者は夜中にどんなことが起こるかわからないという不安感に震え、チャン・ヨンホが米国市民権者として米国でお金を引き出したので米国大使館に行って座り込みしよう、会社のメインバンクである朝興銀行に行って座り込みしよう、政府与党の責任が大きいので与党である共和党当舎に行って座り込みしよう、野党である新民党党舎に行って座り込みしよう、などなどの主張を巡って検討した。 米国大使館や共和党舎は警備がものものしくて突破が難しかったし、朝興銀行はすぐに警察が投入されることが明らかだった。 新民党は労働問題に必ずしも積極的ではなかったが、それでも支える所はそこしかなかった。

‘感’の政治家 金泳三 最高の直感

 労働者たちは明け方になると、あたかも入浴にでも行くように小さな桶を持って四五人ずつ寄宿舎を抜け出した。 途中で発覚しても座り込み場所が露出しないようチーム員には明洞聖堂に行くと話しておいた。 労組指導部は警察が感づけないよう、年齢の幼い50人余りは寄宿舎に残して座り込みの時に歌った歌などを録音したものを大きく鳴らしておかせた。 労働者たちがこっそりと面牧洞(ミョンモットン)のYH工場から麻浦(マポ)の新民党舎に移動する間、ムン・ドンファン、コ・ウン、イ・ムニョンなどの在野要人は上道洞(サンドドン)の金泳三 新民党総裁の自宅を訪ねて行った。 YHの女工たちが寄宿舎から追い出され、最後の呼び掛けをしに新民党の事務所に行くとして、総裁が女工たちの呼び掛けを聞いて解決策を見出してほしいという話に金泳三は即座に野党事務所は誰にでも開放されているとして、彼女たちが訪ねてくれば話を聞いて最善を尽くし助けると話した。 面談時間はぴったり5分、長くない時間だった。 ‘感’の政治家 金泳三の最高の直感だった。

 新民党舎周辺に散らばっていた労働者たちが8月9日午前9時30分、新民党舎に入ろうとすると初めは党員たちが驚いて阻み立った。 しばらくすると上道洞(サンドドン)から連絡が来て、労働者たちは4階講堂に上がった。 夜明けに三々五々と寄宿舎を抜け出した187人が皆集まったのだ。 わずか数時間ぶりだったが、彼女らは無事に再び会えた感激に抱き合って涙を流した。 彼女たちはまもなく「会社が正常化されなければ死だ」という鉢巻きをまいて「私たちに出て行けと言うならどこへ行けというのか」、「腹がへって死にそうだ、食べ物をください」という横断幕を掲げて座り込みを始めた。 新民党が急いでパンと牛乳を持ってきたが、労働者たちは面牧洞(ミョンモットン)に置いてきた幼い同僚たちは何も食べられずにいるとして手をつけなかった。 党員たちがそちら側にも食べ物を提供すると言った後にやっと食べ始めた。

 党舎に出てきた金泳三は先ず労働者代表に会って話を聞き、4階講堂に上がって座り込み中の労働者に「皆さんこそ産業発展の担い手であり愛国者なのに、このような冷遇を受けていいのか」として、保健福祉部長官と労働庁長を来させ、問題を解決すると話して大きな拍手を受けた。 TVでも見た有名政治家たちが直接訪ねてきて、ラジオでもYHの座り込み事実が報道され、おりしも配達されたばかりの夕刊新聞にも座込み場面の写真と記事が大きく載せられたのを見ると、彼女らは多いに力を得た。 YH貿易社長パク・ジョンウォンは新民党舎に来て、党幹部および労働者代表らと会った。 彼は「会社が廃業する程ではないが、これらの女工は作業成績がきわめて悪いのでこれ以上雇用できない」と主張した。生産性が落ちたのは、労働者は熱心に仕事をしたが会社が適時に部品を供給しなかったためではないかという反論を受けて、何も返答できなかった。

 YH女工の新民党舎座り込みは政局を揺さぶった。 維新体制の抑圧に対する不満は広範に広がっていたが、1979年上半期にはその不満が抵抗として表出されなかった。 私服警官がキャンパスに常駐していて、ローマ兵のような服を着た戦闘警察官が何台もの鳥小屋車に乗り込んでいた大学街では1979年1学期にはこれといった学生デモすら起こせずにいた。 表から見れば、太平の世の中であった。 学生たちも、野党政治家たちも、在野要人も、民主闘士らも打ち破れなかったその偽装された太平の世を一番最初に打ち破ったのは "この国の腹をすかせた美しいお嬢さんたち" だった。 <来週に続く>

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/04/05 21:06
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/581491.html 訳J.S(6878字)

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