登録 : 2013.03.01 23:50 修正 : 2013.03.02 00:41

最後まで言うことを聞かなかったエホバの証人をひっ捕まえる

朴正熙の強力な兵役忌避者取締り方針の下、兵務当局は一人一人に対する監視と統制を強化した。 忠南(チュンナム)洪城郡(ホンソングン)のある農家の塀には赤いペイントで‘忌避者の家’と書いた木板まで張り出された。 <東亜日報>1974年7月15日付記事.

兵役忌避一掃で入営率99.9%
これは一方で軍隊に人が一杯になって溢れることを意味した
防衛と戦闘警察が作り出され
それでも人が溢れると
産業特例要員を作った
軍人出身の朴正熙政権では
兵役忌避者は‘非国民’であり
特権層の子供たちは特典ではなく
特別管理の対象だった
エホバの証人は軍隊に行くまで
監獄からまた監獄に行った

 一部では朴正熙を‘祖国近代化’の旗手というが、私は朴正熙時代の特徴を‘祖国軍隊化’と呼びたい。 戦争が法的に完全に終結しておらず、60万を超える大規模常駐軍が存在する韓国社会は、それ自体が一つの巨大な兵営だったが、民間人の李承晩が支配した時期と軍人の朴正熙が支配した時期の雰囲気は全く違っていた。 朴正熙が執権した18年間の中でも後半期の維新時期は、軍隊も非常事態になった軍隊であった。 歴史で見れば、軍隊は必ずしも国を守るためだけに存在するのではなかった。 多くの場合、権力者は国防に絶対的に必要な最小限の人員だけを徴集するのではなく、自分たちが願う方式で社会を運営するのに適合した人間モデルを育成する教育の場として軍隊を利用した。 戦争が真っ最中の時より3倍も多くの兵力を維持してきた韓国もそのようなケースであった。

‘たった1人の列外’もない兵営国家化

 1950年代と1960年代の兵役忌避者数を見れば、その規模が徴兵対象者全体の15~20%と驚くほど高かった。 まだ国家の行政能力が一人一人を徹底的に把握できる程に発展できなかった上に、分断と戦争で戸籍など兵事書類が完備していなかったせいで毎年数万から十数万人の兵役忌避者が出たのだ。 1961年5・16軍事反乱直後、内閣公告第1号で兵役義務不履行者の自首を受け付けたが、1,2次にかけて自主申告した兵役忌避者が何と40万を超えたという。 軍事政権は1962年、兵役法改正を通じて地方兵務庁を新設し、兵務行政の責任者を国防長官に一元化した。 本来、兵務行政とは民間人を招集して軍人にする過程なので、現役入隊後には国防部が管理するが、民間人身分である時は内務部や地方自治体が管理するのが一般的だ。 韓国と同じように冷戦の最前線を担当した台湾の場合も韓国の兵務庁に該当する役政司は国防部所属でなく内政部所属だ。 地方兵務庁が作られて兵務行政が国防長官の責任に一元化され、地方兵務庁長は兵務行政に関する限り地方行政部署と警察官署に対する指揮監督権を持つようになった。 1968年北側124軍部隊の大統領府襲撃事件で韓国社会が急速に兵営国家化の道を歩むことになり、兵務行政はより一層強化された。 1968年に導入された住民登録証は、一人一人に固有番号を付与した徹底した監視体制の確立を象徴した。 朴正熙は「不正と不信で汚された兵務行政を正す」という名目で1970年8月国防部兵務局を解体し、国防部の外庁として中央にも兵務庁を創設した。 1971年12月国家非常事態を宣言した朴正熙は、翌年2月中央兵務事犯防止対策委員会を開き、国家非常事態での強力な兵役忌避者取り締まり方針を明らかにした。 それでも兵役不正が発生するや朴正熙は政府与党である共和党議長ペク・ナモク、産業銀行総裁キム・ミンホなど兵役不正連座者を辞職させ、将軍級10人余りを拘束し、兵務庁長チョン・ブイルを解任した後に自身の陸軍士官学校同期のキム・ジェミョンを後任に任命した。

 維新直後の1973年1月20日、朴正熙は国防部を巡視した席で「今後、法を作ってでも兵役を忌避した本人とその両親がこの社会で頭を上げて生きられない社会気風を作るようにしろ」と指示した。 この指示により既存の兵役法や刑法に比べて処罰規定を強化したのが‘兵役法違反などの犯罪処罰に関する特別措置法’だった。 入営および招集忌避者は、既存の兵役法では3年以下の懲役に処することになっていたが、新しい法では3年以上10年以下の懲役に処することになった。 朴正熙は兵務不正の根絶のためには兵務庁だけでなく関連機関の協力が絶対に必要だという理由で、1973年2月26日大統領訓令第34号で‘兵務行政刷新に関する指針’を制定した。 これによれば 「兵役忌避者は維新課題と国民総和を阻害する‘非国民’的な行為者」と規定された。 ‘非国民’(ヒコクミン)とは、日本軍国主義者らが自分たちの戦争策動に非協調的な人々を体制から排除するために好んで使った兇暴な単語であった。

 維新政権が兵役忌避一掃方針を強力に押し進め、またこの頃から行政の電算化が急速に進展している上に、停戦以後に南側で出生した人々が徴集年齢に到達してから兵役忌避者の数は急激に減り始めた。 兵務庁によれば1970年に13.2%に及んだ兵役忌避率は、1973年3月特別措置法発効以後に0.3%へ急減し、1974年には0.1%になった。 5・16直後の兵役忌避者数が40万を越えたことに比べれば、10余年後に兵役忌避者が0.1%以下である200人余りに減ったというのは事実上 兵役忌避が根絶されたことを意味する。 しかし朴正熙はこれに満足しなかった。 維新体制は‘ただ一人の列外’もない総和団結を望んだのだ。 朴正熙は公務員たちをうるさく迫った。 兵役忌避者が発生すれば 「地方兵務庁と区・市・郡・邑・面・洞においては忌避者探索責任者を指定し、徹底した探索告発し、告発遅延または脱落があれば関係職員を厳重問責」するようにした。 これに伴い「検察および警察署単位で兵務事犯専門担当検事および警察官を指名して、各警察署単位で探索責任を付与しその検挙実績を地検検事に報告する制度」が確立された。

赤いペイントで書いた‘忌避者の家’

 兵務事犯取り締まり専門担当班の活動実績を調べれば、1974年6月1日から7月15日までの一ヵ月半に取締班は官の許可を必要とする業者1万2584ヶを調査して兵役忌避者を雇用していた6ヶの業者の許可を取り消し、 「6284ヶ所の職場で539人の兵役忌避者を探索、17ヶ業者は兵役忌避者雇用禁止違反の疑いで司直当局に告発」した。 この時、告発された業者には、国際化学、大成煉炭など財閥級大企業から町内理髪店に至るまで全国大小の企業等が網羅されたという。 ある新聞は社説を通じて「忌避者539人を探し出すために1万2500余りの官許業者と6200余りの職場を検索したというから、これに動員された調査官の数と使われた経費がどの程度かは十分に推し量れる」と皮肉った。 このような強力な取締りが行なわれたのは、民青学連事件関連者は令状なしで逮捕し軍事裁判所で最高死刑に処することができるという、あの有名な緊急措置4号が宣言された直後であった。 維新体制は兵役忌避者取締りを名目に、一人一人に対する検問検索と職場と村に対する監視統制を強化した。 朴正熙はこのような形で‘社会規律の確立’を、言い換えれば社会を飼い慣らしていった。

 一つ興味深い点は、当時 朴正熙は社会著名人や特権層、富裕層の子供たちに対して列外を認めずに厳格に管理したという点だ。 1973年、兵務当局は「一般国民から注目の対象となる社会著名人、特権および富裕層の子弟942人と芸能人および体育人708人を選定」して特殊兵役管理対象者として名簿を管理した。 中央情報部は特殊兵役管理対象者の親権者に対して背景を調査し、これを各部署に通知した。 朴正熙はこの計画に対する報告を受けては決裁欄に自筆で「着眼が良好」と書き込んだ。 兵務庁は翌年の1974年度にも特殊兵役管理対象者1288人全員に対し現役入営577人、防衛招集201人、徴兵検査510人など兵役義務履行を監督し、1975年にも特殊兵役管理対象者2708人に対する名簿を作成した。

 その結果、維新時代には高位公職者や財閥、報道機関社主、国会議員など上流層の子供たちの兵籍記録票には‘特’という印鑑が捺されて別途の管理を受けていた。 朴正熙の特別な関心事だと見れば‘特’字が捺された人々も髪を切って軍隊に行かないわけにはいかなかった。 朴正熙の監視はぴったりそこまでだった。 ひとまず軍隊に入隊した後、依病除隊や依家事除隊(訳注:家庭の事情による除隊)をしたり‘楽’な職務に収まることは適当に目を瞑ってあげた。 特権層の子供たちに対する特別管理に対して、特権を持つ者たちは不満が強かった。 特権を持てる者たちは自分の子供たちに対する特別管理は逆差別だと主張して、ついに1996年国防部をして特殊層子弟に対する特別管理を廃止させた。

 特権層の子供たちでさえ例外なく軍隊に引きずられて行かねばならない状況で、兵務当局は平凡な家の子供たちが兵役忌避をする場合、彼らの人権を些かも考慮しなかった。 一例として忠南(チュンナム)洪城郡(ホンソングン)広川邑(クァンチョンウプ)の兵事担当職員は、ある兵役忌避者の家に横30㎝縦1m40㎝大の木板に白地に赤ペイントで "忌避者の家" と書いて貼った。 その家の息子が10年前の17才の時、金を稼ぎに行くとして家出した罪だった。

 このように熱心に兵役忌避者をなくしたことが想像もしない副作用を産んだ。 相当な比率の兵役忌避者の存在を前提として徴兵制度が運営されていたのに、突然兵役忌避者が一掃されるということは軍隊に人が一杯になって溢れることを意味した。 軍事政権は防衛制度を作り戦闘警察を作って国防義務を果たすために招集された青年たちを政権維持のために使った。 それでも人々が余った。 そこで生まれたのが企業に配置され兵役義務の代わりをする産業特例要員だった。 企業が資格を取り消せば直ちに現役に引きずられて行かねばならない産業特例要員は、軍隊という首輪でつながれた現代版奴隷労働だという批判を受けた。 軍人が掌握した国家は資本にこのように施すことができた。

 朴正熙がひとりの列外も置かない強力な兵営国家建設を夢見た時‘公共の敵’として登場したのは良心的兵役拒否を実践するエホバの証人たちだった。 日本軍国主義者らによって‘非国民’にされ獄に捕らえられたエホバの証人たちは朴正熙体制の下で再び受難の歳月を送らなければならなかった。 兵役忌避者一掃を叫ぶ朴正熙の意に合わせて兵務庁は1974年を‘兵役忌避者一掃の年’に決めた。 兵務庁の方針に最も大きな障害物になったのはもちろんエホバの証人だった。 一例として兵務庁は1974年7月「今年に入って発生した兵役忌避者は計78人で、この中には宗教的良心を口実に兵役を忌避したエホバの証人が87.2%の68人」と発表した。 エホバの証人さえいなければ兵役忌避率は画期的に下げられるということだった。 朴正熙は1974年、兵務庁の取締り実績の報告を受けながらエホバの証人問題を解決しろとの特別指示を下した。 兵務庁は1974年12月12日から1975年1月11日にかけてエホバの証人代表210人と入営懇談会を開催した結果、証人たちが良心に従った兵役拒否が‘誤った仕業’であることを認め、兵役義務を遂行するという反応を示しているという虚偽の報告を上げた。 エホバの証人の良心に従った兵役拒否決定はあくまでも聖書に立脚し個人個人が自身の良心に従って行うことであるため、教団次元でああしろこうしろと言えることではなかった。 しかし兵務当局としてはエホバの証人が兵務庁の説得により兵役義務を積極的に履行することにしたと大統領府に虚偽の報告をしたので、エホバの証人信徒の中から多数の兵役忌避者が発生することを放置することもできなかった。 その結果はエホバの証人信徒に対する兵務当局の不法な連行と強制入営だった。

医大生チョン・チュングクはなぜ7年10ヶ月を服役したか

 1975年3月9日、釜山地検検事パク・チョルオンが率いる釜山市兵務事犯取締り班は、伽倻王国会館など19ヶのエホバの証人集会所を急襲し、礼拝中の青年63人を殴打するなどし強制連行した。 平和的な宗教行事を行なっている信者を公権力を動員して連行したことは、憲法に保障された宗教の自由を重大に侵害することだった。 兵務当局はエホバの証人の宗教集会だけでなく信徒の自宅まで訪ねて行き、令状なしで不法連行したり兵務召集に応じなければ妹を捕まえて行き拷問すると脅迫までした。

 兵務庁がエホバの証人たちの宗教行事まで襲撃するなど苛酷に出たのは‘兵役法違反などの犯罪処罰に関する特別措置法’が持っている問題点のためでもあった。 現在、良心的兵役拒否者たちは1年6ヶ月の実刑を宣告されれば、それ以上は令状が発給されない。 しかし特別措置法は兵役拒否者たちが実刑に服して出てきても、再び令状を発行し何度でも繰り返し処罰するようになっていた。 医大生だったチョン・チュングクが4回にかけて7年10ヶ月を服役したのも特別措置法の‘おかげ’だった。 21歳だった1969年に兵役忌避罪で10ヶ月の刑を受けて始まったチョン・チュングクの苦難は、彼の年齢で33歳、朴正熙が死んで2年が過ぎてようやく終わった。 エホバの証人も人間であるから、若くしてまた再び監獄暮らしを繰り返さないようにすることは当然のことだった。 それでエホバの証人の中には、再び令状が出てくることを知り家に帰らず避けてまわる人々が現れ始めた。 兵務当局は信心が強い人々が家には帰らずとも礼拝には出てくると見て王国会館などを襲撃したのだ。 エホバの証人たちは宗教集会だけでなく時と場所を分けずに連行された。 服役して出てきたチョン・チュングクは刑務所の前から再び連行され、結婚式場で捕えられた新郎もいた。

 朴正熙の強力な意志に符合して忌避率ゼロを夢見た兵務庁は、不法な強制連行を通じてエホバの証人を軍隊に引っ張っていった。 いよいよ兵役忌避率は事実上ゼロに近づいた。 しかしこれは‘見せかけ’に過ぎなかった。 徴兵年齢帯に該当するエホバの証人男性信徒は、国家の強力な取り締まりを物ともせずに良心の命令に従った。 彼らは民間人として兵役法に違反するのではなく、強制的に軍隊に連れられてきて抗命罪を犯したことになっただけだ。 もうエホバの証人問題を処理する国家機関の第一線には兵務庁ではなく軍が登場せざるを得ない状況がもたらされた。 その結果、キム・ジョンシク(1975年11月13日),イ・チュンギル(1976年3月19日)等、エホバの証人信徒5人が軍隊で殴られ死ぬ事態が起きた。 真に悲しいことだが、軍隊で死んでいった人々はエホバの証人だけではなかった。 朴正熙が国民を相手に戦争を行った維新時期、真に多くの若者たちが軍隊タバコの煙の中に消えていった。 <次週に続く>

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/03/01 21:05
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/576227.html 訳J.S(6319字)

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